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前世知る少年 秋田魁新報連載 平田篤胤『勝五郎再生記聞』を読む

第三十五回 澤蔵司稲荷の慈悲

簗瀬均氏、秋田魁新報社の許可を得て掲載しています。大きな画像はこちら


丑之助は金比羅(こんぴら)の神との約束を破り、崇(たた)りに遭った。だが産土の神が丑之助を助けに現れ、金比羅の神に語りかけた。その内容を丑之助が、憑(つ)かれたかのように口にした。

「丑之助は、あなた(金毘羅の神)に祈り、酒を断つ約束をして病を治してもらった。それなのに今日は、たいそう大酒をあおった。非難されるのはごもっともだ。だが丑之助は、元から私の氏子だ。今日はとりわけ私の祭りであるため、私を楽しませようとして、人々にそそのかされ大酒をあおったのだ。だから許してほしい。たとえ丑之助を非難されようとも、一応は私に、その事を話してほしかった。それから丑之助を罰するのが道理ではないでしょうか。だが、そのようなお話が私になく、いきなり私の氏子の丑之助に罰を与えるのは、理解できかねます…」と鎮守の神である氷川大明神が切々と語った。

すると金毘羅の神は、なるほどと、うなずかれた様子だったが、返答はなく、互いににらみ合ったままだった。そこに小石川の伝通院(でんづういん…徳川将軍家の菩提寺)の澤蔵司稲荷(たくぞうすいなり)の神が、お出でになった。澤蔵司稲荷は僧の姿で、浅黄(あさぎ…薄い黄色)の頭巾を深くかぶっていた。

ここからは篤胤の解説。

伝通院を中興させた廓山(かくざん)上人のとき、梅檀林(修行するところ)に学寮長の極山(ごくざん)和尚がいた。元和4(1618)年4月のある夜、郭山上人をはじめ極山和尚と同学の僧の夢に、一人の僧が現れて「入学したいので明朝登山する」と告げた。

翌朝、極山和尚の寮へ僧が一人現れて、謁見を求めた。このことを郭山上人に伝えると、正夢だと不思議がった。そして寺に入ることが許され、澤蔵司と名付けられた。

澤蔵司は、ひときわ学識と人格に優れ、みんなから尊敬された。3年修行し浄土宗の奥義を極めた。

澤蔵司は元和6(1620)年5月7日夜、再び極山和尚の夢枕に立ち、「私の真の姿は吉祥寺(江戸城内)の稲荷大明神であり、今から元の神に戻るが、長く当山(伝通院)を守護し恩義に報いたい。そこで当山に小社を造ってほしい」と伝え、白狐の姿になって暁の雲に隠れ去った。こうして澤蔵司稲荷の社が建立されたのだという。

澤蔵司稲荷は、狐神(狐そのものが神)を祭ったのだが、人々が稲荷神(宇迦之御魂神…うかのみたまのかみ)と名付けて祭ったために、澤蔵司も自ら稲荷神を名乗った。でも稲荷神と呼ばれているが、やはり澤蔵司は狐でないのか。これについては別に詳しく論じたものがある。

さて澤蔵司稲荷が僧の姿なのはなぜなのか、と思う人もいるだろう。伊勢国(三重県東部)で、老いた狐がある男に取り憑いてさまざまなことを語った。その中に「稲荷と名付けられた狐神は、民家で祭られたものは一般人の姿をし、寺で祭られたものは僧の姿で現れる。おのおの主人の身分によって狐神の身分も定まる」という。これは小竹真桿から以前聞いた話と一致する。

ここからは再び丑之助が口にした内容。

澤蔵司稲荷の神は、金比羅の神と氷川大明神の間にひれ伏し、大変畏(かしこ)まっている様子で、次のように語った。

「私は伝通院の澤蔵司です。金毘羅宮のお怒りと氷川大明神のおっしゃることは、ごもっともです。もとはと言えば、丑之助の気の緩みから起こったこと。おとがめするのは当然です。ですが丑之助は時々私のもとへも参拝し、身の上のことを祈りました。そこで私がこの場に参上したのです。金毘羅宮と氷川大明神のお怒りは、私が一身に頂戴します。その罪を私が一身に背負います。ですから丑之助の罪を許してください。許してもらえたら、丑之助を讃岐(香川)の金毘羅宮のもとへ参詣させましょう」

澤蔵司稲荷は、にらみ合う金比羅の神と鎮守の神の間に立ち、丑之助の罪を自らが一身に背負うことで丑之助を許してほしいと懇願した。わが身を捨てて信者を守る慈悲深い神である。

 

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