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前世知る少年 秋田魁新報連載 平田篤胤『勝五郎再生記聞』を読む

 第十一回 一心に念ずる力 お地蔵様が子を救う

前世知る少年 勝五郎

簗瀬均氏、秋田魁新報社の許可を得て掲載しています。大きな画像はこちら


6歳で亡くなり、魂(意識)になった藤蔵は、不思議な老人に誘われて奇麗な草原に来ていた。そこで遊んでいると、家での話し声やお経が聞こえてきた。

遊び歩いていると、家で親たちが何かしゃべっているのと、お経を読む声が聞こえたが、おらはお坊さんを憎らしく思っていた。

おらに供えられた食べ物を食べることはできなかったが、その中で温かいものは、その湯気の香りがおいしいと感じた。

池田冠山著『前生話』では「家の中で温かい牡丹餅(ばたもち)を供えると、鼻から烟(けむり)を呑(の)むようであったから、おばあさん、仏様に温かいものを供えなさいよ。そして僧様にものを施しなさいよ。これがいいことだよ」と、仏に対して好意的に記している。

魂は、食べ物を口にできないが、温かく香ばしい匂いは感じ取れるようだ。6世紀前半、仏教が伝来した時、仏教の儀礼と共に日本に入ってきたお香も仏様へのお供え物の一つだ。お香の良い香りを差し上げたいという願いからだろう。

平田篤胤著『再生記聞』にはお経が、『前生話』には念仏を唱える声が藤蔵に聞こえたとある。「お経」とは、般若経、法句経など釈迦が弟子たちに語った説法だ。「念仏」とは、仏を念じながら唱える短い言葉。例えば「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えることは、浄土へ渡れるように「阿弥陀如来を敬い帰依します」と言っていることになる。

『再生記聞』では、この世で実際に行われている僧によるお経が、藤蔵に聞こえたようだ。『前生話』には「いくら遠くにいても、家の中で念仏を唱える声と何か話す声が聞こえた」とある。藤蔵を供養する家族や縁者の念仏であろうか。藤蔵が無事に浄土へ渡れるように願う、人々の切なる思いが伝わってくる。

勝五郎の前世とされる藤蔵の生家(東京都日野市程久保)前には六地蔵があって、藤蔵が亡くなる文化7(1810)年より前から女念仏講が行われていたという。念仏講とは、念仏を唱える在家の仏教信者たちの集まりのこと。信仰者たちを講中と呼び、葬儀や村の行事で念仏を唱えた。

この六地蔵は、安永8(1779)年に地域の女念仏講中が建立した。このころは、西洋の学問がオランダから盛んに取り入れられた時期。同年は蘭学者の平賀源内が亡くなり、その5年前には杉田玄白らが日本最初となる西洋医学の翻訳書『解体新書』を刊行した。六地蔵が作られたのはそうした時代であるが、西欧の文化が入っても日本人が長年信仰してきた土着の風習は変わらなかった。

藤蔵の生家を引き継ぐ小宮豊さん(68)によると、現在の六地蔵は寛政7(1795)年に女念仏講中が再建したもので「1998年ごろまで女念仏講が行われていた」という。

子供が亡くなると、両親は無事に成仏できるように念仏を唱えた。親より早く死んだ子供は、親不孝の報いで仏の世界に行けず、功徳を積まねばならない。そのため賽の河原(さいのかわら)で石を積み、両親の供養塔を作る。だが鬼が来て塔は壊され、子供は何度も石を積み直す。手足には血がにじみ、親が恋しいと苦しみ嘆くのである。

それを哀れんだお地蔵様(地蔵菩薩)は修行僧の姿で現れ、子供を抱いて錫杖(しゃくじょう…つえ)に取り付かせ、鬼から守る。お地蔵様が子供を救うのである。この話は、念仏聖(ひじり)の空也(くうや…出生年不明~972年)の『西院河原地蔵和讃(さいのかわらじぞうわさん)』で伝えられた。

お地蔵様は阿弥陀信仰と結びつき、特に地獄の責め苦から亡き人を救い出し、阿弥陀如来のいる極楽へ送り届ける。お地蔵様は、この世とあの世の間にいて、亡き人を救うといわれる。

人々の「南無阿弥陀仏」と唱える念仏は、お地蔵様に届き、いつしか阿弥陀如来がいる極楽浄土へと亡き子供を導くのだろう。藤蔵は賽の河原へは行かず、美しい草原で遊んでいた。そこが藤蔵にとっての極楽浄土だったのかもしれない。やがて藤蔵は、老人に誘われて5キロ離れた村で生まれ変わる。これも一心な念仏の力なのだろうか。極楽浄土への願いとともに、またこの世に生まれ変わってほしいという縁者の思いも深かったであろう。

松浦静山の『甲子夜話』をはじめ多くの文献には、お地蔵様が、藤蔵を勝五郎として生まれ変わらせたように描かれている。これらの筆者たちは、程久保村の藤蔵の生家を尋ねた際、六地蔵と念仏講の存在に気づき、これが生まれ変わりに関わったと考えたのかもしれない。

 

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