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前世知る少年 秋田魁新報連載 平田篤胤『勝五郎再生記聞』を読む

第二十四回 その後の勝五郎 農業、目籠作りで生活

前世知る少年 勝五郎

簗瀬均氏、秋田魁新報社の許可を得て掲載しています。大きな画像はこちら


勝五郎を生まれ変わらせた不思議な老人と、姉ふさの夢に現れた老人とは同じ仲間(熊野神)であり、ふさの夢に現れたもう1人の「蛇体の者」とは、ふさの出生地の産土の神(氷川大明神)だろうと父源蔵は推測し、篤胤(あつたね)が考察を加える。

さて熊野神も(氷川大明神と同じように)もともとはスサノオノミコトの御霊(みたま)を祀(まつ)ったのだから、とりわけ両者に縁があったのだろう。勝五郎の生まれ変わりは、程久保村(東京都日野市)の鎮守の神が何神であるかは聞いていないが、中野村(同八王子市)の鎮守の神と相談してなされたのだろう。

それというのも、人によって出生地を去り他所へ移って生活する者も多く、そういう人を出生地の神と現在地の鎮守の神とが互いに守護することは、私が最近見聞した事例から明らかだ。

こうしたことは神の道を知らない人には理解しにくく怪しく思われるだろう。詳しく言いたいが、長くなるのでここでは省く。

神仏のいる世界は幽冥界(ゆうめいかい…あの世)であり、大国主命(おおくにぬしのみこと)が主宰し、その末々を国々所々の神が分担して治めるという、自らの持論に行き着かせ、篤胤はいったん勝五郎の話を終える。『勝五郎再生記聞』の後半は、古今東西の生まれ変わり事例などについて、篤胤の考察が展開される。

ところで勝五郎は、その後の文政8(1825)年8月、篤胤の門人になった。篤胤の学舎(気吹舎…いぶきのや)の『誓詞帳(せいしちょう…門人帳)』に「武州多摩郡中野村源蔵忰(せがれ) 小谷田勝五郎 十一才」と記録されている。勝五郎の名前の左下に紹介者が書かれていないので、篤胤が直接門人になるよう勧めた可能性が高い。

学舎の記録『気吹舎日記』の同年8月26日に「(父)源蔵、勝五郎を連れて来る」とあり、翌年3月25日まで学舎に滞在。その後も文政10年ごろまで学舎に出入りしていたようだが、その後を伝える記録は残っていない。

当時を伝える勝五郎にちなんだ建造物としては、文化元年ごろ建立された勝五郎の祖父勘蔵の実家(本家)がある。勘蔵の兄小谷田忠次郎が引き継いだ。忠次郎は高野山を詣でた際の交通手形を残しており、信心深く経済力があったことがうかがえる。同家には明治27(1894)年に書き写された『勝五郎再生記聞』が所蔵されている。

勝五郎の父源蔵は、百姓の傍ら副業として目籠(竹籠)を作って江戸へ売りに行った。目籠作りは、多摩の地場産業で、柚木村や中野村などが中心地域だった。源蔵の江戸での宿は馬喰町(中央区)の相模屋喜兵衛であった。勝五郎も後年、父と同じように農業の傍ら目籠作りをしながら豊かな生活を送ったという。

勝五郎調査団の小宮豊さん=日野市=たちの調査によると、勝五郎はやがて結婚し父源蔵の下から分家した。先妻は「まん」、後妻は「なみ」といった。

勝五郎の家は祖父勘蔵の実家の南側である野猿(やえん)街道(八王子と多摩を結ぶ道路)沿いにあった。実子がなかったので「与右衛門」という6歳の少年を養子に迎えた。与右衛門はそれから14年後の明治元年、20歳の時「さく」と結婚した。

勝五郎は、その翌年の明治2(1869)年12月4日、55歳で病没した。その時、妻なみは52歳だった(明治3年12月作成.『武蔵国多摩郡中野村平民族戸籍』)。葬儀には和尚が5人も来たという。

その後、養子与右衛門の夫婦は、勝五郎の妻なみを世話しながら横浜方面へ転居した。絶家になりかけた勝五郎の家だったが、中野村井戸之上の金子権六という徴兵令の兵役免除を請う人が家督を買い取り、勝五郎の家と墓は引き継がれた。当時の徴兵令は、家の跡継ぎになれば兵役が免除されたからだ。以後、権六は小谷田姓を名乗り、子孫が代々勝五郎の家と墓を守ってきた。

 

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