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前世知る少年 秋田魁新報連載 平田篤胤『勝五郎再生記聞』を読む

第二回 殿様が取材に訪問 愛娘の再生願う親心

前世知る少年 勝五郎

簗瀬均氏、秋田魁新報社の許可を得て掲載しています。大きな画像はこちら


1822(文政5)年11月のある日、武蔵国多摩郡中野村(東京都八王子市東中野)の勝五郎(かつごろう)という八歳の少年が、一緒に遊んでいた十四歳の姉に向かって「お姉ちゃんは、今の家に生まれ変わる前、どこの家の子だったの」と尋ねた。驚いた姉が「そんなこと知らない」と言うと、勝五郎は「おらは、程久保村(東京都日野市程久保)の久兵衛の子で藤蔵(とうぞう)だった…」と答えた。

これが前世を知るという勝五郎が語る話の始まりである。この後、勝五郎の証言が事実であることが次々と確かめられていく。うわさは江戸まで広がり、徳川家康の子孫の一人である池田冠山(かんざん)という元大名が、勝五郎の家に自ら取材に来る。隠居したとはいえ殿様の訪問を受けた勝五郎は恐れ多くて何も話せず、祖母が勝五郎から伝え聞いた話を冠山に伝えた。

冠山はペンネームである。本名は池田定常(さだつね…1767~1833年)といい、若桜(わかさ)藩(鳥取藩支藩)第五代藩主。文人大名として知られる。冠山には大変かわいがっていた娘露姫がいたが、1822(文政5)年11月27日に逝去した。

8歳の勝五郎が前世の記憶を語り始めたのも同年11月。露姫も勝五郎の前世とされる藤蔵も、同じ6歳で疱瘡(ほうそう…天然痘)にかかって亡くなっている。冠山は、露姫が勝五郎のように、誰かの子として生まれ変わるかもしれないと期待しながら取材したのだろうか。

勝五郎の前世とされた藤蔵の生家である小宮家には、長年にわたって誰なのか分からない位牌が祭られてきた。戒名は「浄観院殿玉露如泡大童女」。2007年、日野市の「勝五郎生まれ変わり物語探求調査団」が、池田冠山ゆかりの鳥取県雲龍寺を訪問。そこで露姫の戒名の刷り物と覚書を見つけた。

小宮家にある位牌と同じ戒名が書かれており、冠山が露姫の菩提を弔うために戒名の刷り物を、縁者に配布していたことが分かった。娘の再生を祈る冠山の親心が伝わってくる。

池田冠山が聞き取ってまとめたのが『勝五郎再生前生話(ぜんしょうばなし)』である。勝五郎の再生譚(さいせいたん)は、篤胤の『勝五郎再生記聞(さいせいきぶん)』(文政6年6月)によって広く知られたが、冠山の『前生話』(同年3月)の方が3カ月早く世に出た。

後に勝五郎再生譚が紹介された近世の資料は13点ほどあるが、最も早い『前生話』を引用したり参考にしたりしている。

冠山の『前生話』は江戸の文人や学者の間で評判になった。文化文政期(1804~30年)は、文人たちが不思議な怪奇現象などに関心を示した時代。『南総里見八犬伝』などで知られる読本(よみほん…小説の一種)の作者滝沢馬琴(1767~1848年)は、1825(文政8)年、同好の仲間を集めて「兎園(とえん)会」を催し、奇事異聞を披露し合って『兎園小説』にまとめた。

こうして「前世知る少年」の話に多くの文人が注目し、大きな話題となった。これによって勝五郎が暮らす中野村の領主多門(おかど)伝八郎が、放っておけないとして勝五郎親子を江戸に呼び出し、事の真偽を問いただすことになった。多門は取り調べた内容を報告書にまとめ、上役である御書院番頭(将軍の直属親衛隊、多門の上司)佐藤美濃守へ提出した。

なお元禄赤穂事件で、浅野長矩(ながのり)の取り調べと切腹の副検死役を務め、その様子を詳しく『多門筆記』に記録したのが、幕府目付多門伝八郎(1658~1723年)である。勝五郎親子を取り調べた多門伝八郎は、その子孫に当たる。

 

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