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前世知る少年 秋田魁新報連載 平田篤胤『勝五郎再生記聞』を読む

第八回 生まれ変わりの導き手 不思議な老人が誘う

前世知る少年 勝五郎

簗瀬均氏、秋田魁新報社の許可を得て掲載しています。大きな画像はこちら


平田篤胤は復古神道を唱え、外来の仏教や儒教などの影響を受ける前の日本民族固有の精神に立ち返ろうとした。『古事記』や『日本書紀』などの古典にある日本古来の神の道に戻ろうとしたのである。そのため篤胤は仏教を排斥し、『再生記聞』でも僧を批判した。

一方で篤胤は、文政3(1820)年『鬼神新論』で「神の道においては、仏の供養も当然行うべきだ」と述べている。また篤胤の仏教研究の業績が永平寺の高僧に称賛され生前に法号を授与され、さらに宗派にこだわらず広く高僧たちとも交際している。

(お坊さんは尊く、お経を読み念仏を唱えれば、死者がよい国に生まれるという。その時、おまえは地獄・極楽を見たか、と聞かれたが)、お坊さんたちがお経を読んでも、おらは何とも思わなかった。お坊さんたちは銭金が掛かるけど役に立たなかったので憎らしく思い、おらは家に帰った。家に帰ってからは机の上にいたが、人に話し掛けても、おらの声が聞こえない様子だった。

勝五郎の前世とされる藤蔵と似ている事例が、海外にもある。タイの修道僧(修道院で共同生活する男性)チャオクン・ラジスタジャルンは、母方の伯父であった自分の過去生(前の人生)を記憶していた。そして死亡後に、自分の葬儀に出席していた中間生(死後の記憶)もあった。「その時、自分が軽くなった気がして、どこへでも簡単に移動できるように感じられた。自分が葬儀を進行しており、弔問客を迎えていた気もするが、自分の姿が参列者には見えず、その場にいる自分が全く気づかれないまま葬儀が進められていた」と語っている。(イアン・スティーブンソン『前世を記憶する子どもたち』、日本教文社、1990年)

続く『再生記聞』には、生まれ変わりに関わる重要な人物が現れる。

その時、白髪を長く垂らし、黒い着物を着た老人が「こっちへ来い!と言うので、誘われるまま、おらは老人の後を追い、どことも分からない、だんだんと奇麗な芝が生えている草原に行って遊んだ。

池田冠山著『前生話』には「何とも言いようがない爺様(じいさま)のような人が来て連れて行かれると、空を飛んで歩いて、昼も夜もなしに、いつも日暮れ方のようだっけ。寒くも暑くもひだるくもなかった。いくら遠くにいても内で念仏を唱える声と何か話す声が聞こえた」とあり、老人に誘われて空を飛ぶ様子が描かれている。

『前生話』から、およそ1カ月後の文政6(1823)年4月12日に書かれた肥前(長崎県)平戸藩の元藩主松浦静山(まつら・せいざん…1760~1841年、明治天皇の母方の曽祖父)の随筆集『甲子夜話(かっしやわ)』には、「葬送の時、瓶(かめ)に入れてから棺に入れられ、葬るときに棺だけが埋葬されて、おらは棺に上がって見物していた。それから、たいそう広い野原に来ていた。そこに地蔵様と老人がいた。二人はおらを所々へ連れて行った。四季の草花が咲き誇り、山谷海川などの絶景は言葉で言い尽くせないほど美しかった。そうして所々へ連れて行ってもらいながら、見物しているうちに3年が過ぎていた」とある。

『甲子夜話』には老人の他に地蔵菩薩も登場する。そして「前世で病死後、地蔵様のもとに3年いたが、2度目の出生の際、家の中が騒々しいので、それに紛れて多くのことを忘れた」とある。同著は松浦静山が、友人の池田冠山から伝え聞いた内容を書き記した。そこでは主に地蔵菩薩という仏と関わっている。

ところで『再生記聞』の中ほどには、勝五郎の話し方を評して「極めて小声なので、語る内容を推し量りながら問い返し、前後の内容をつなげて書き取った」「(勝五郎が)首尾を整えて語ったのではない」と記述している。

断片的でたどたどしい呟き(つぶやき)からは、聞き手の思いによって、勝五郎を誘う相手が老人にも仏にも受け取られよう。話し手と聞き手が、互いに影響し合って物語ができていったことが想像される。

「生まれ変わるために地蔵菩薩の力が必要なのではないか」という書き手の思いがあれば、老人よりも地蔵菩薩が優先されよう。逆に仏教を批判し、神々こそが生まれ変わりを導くと主張する篤胤なら、ある神が老人の姿で現れたと判断しただろう。果たして藤蔵を導いたのは何者だろうか。

 

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