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前世知る少年 秋田魁新報連載 平田篤胤『勝五郎再生記聞』を読む

第三十二回 神が人に煩悩与える 仏の教えと矛盾教える

簗瀬均氏、秋田魁新報社の許可を得て掲載しています。大きな画像はこちら


「本来は仏だが、神の姿になって命あるものを救う」という「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」を批判する林羅山の論の紹介が続く。

「こういう正統から外れた説は、私が批判したことで理論的に立ちゆかなくなった。その異端説は日の神が大日如来で、その他の神々ももともとは仏であり、垂迹(仮の姿)が神だという。時の王侯、有力者がこれをすっかり信じこみ真実に気づかなかった。ついに神社と仏寺が混交し、少しも疑わない状況になった。現在、真実を知っているのは書を読み、ことわりを知る少数の人のみだ。普通の人々は理解していない」

(このように林羅山が反論したにもかかわらず)僧などはいうに及ばず、世の人々も「仏が本地(本来の姿)、神は垂迹(仮の姿)」だと格言のように言う。もしその通りなら、神は仏の意のままであり、仏の思い通りに神が動くはずだ。だが実際はそうでない。

神が天地万物を生み出す時、心のままに人の身体をつくり、生殖機能を与え、煩悩の一つである愛欲を持たせた。仏教の開祖釈迦(しゃか)も人に変わりない。

神がすなわち仏ならば、なぜ仏は神に、仏道修行の妨げになる生殖機能を、人に持たせたのか。生殖機能があると煩悩(愛欲)が起こる。釈迦も妻を3人持ち、子供を3人生ませているではないか。

仏は神に生殖機能がある万物をつくらせておきながら煩悩を戒める。これは井戸を深く掘って水が出るのを憎むのと同じく、ばかげたことだ。

篤胤(あつたね)は『古事記』をはじめ広く聖書も研究し「天地創造の神」を見つけ、神が人間をつくったと判断したようだ。篤胤は、それを前提にして考察する。

神がつくった人の世に、仏教が伝来すると、仏が神の本来の姿で、神は仏の仮の姿だと考えられるようになった。

ところが神は、子孫を残す機能を人に与えた。だが仏教の修行は、煩悩を戒める。当時主流の本地垂迹説だと、仏が本来の姿で、仏から神が遣わされる形だ。そうなると煩悩を戒めるはずの仏が神に、煩悩を起こさせたことになる。これは道理に合わない。

初めに神があって人に愛欲を持たせ、そこへ仏が現れて煩悩を戒めるという論理なら自然であり、筋が通るだろうと篤胤は考えたのだろうか。

この一つの事例からしても、神は天地万物の大本であることが分かる。以上は幼稚な論だが、世の人々に読ませようと『古今妖魅考』の一部を紹介した。

さて勝五郎の生まれ変わりについても僧や仏教の信者は、さまざまにこじつけて経典(仏の教えを記した書)の証拠にしたがる。古い事例も今の事例も、生まれ変わりといえば、仏の霊威のように考えたがるのだ。

また生まれ変わりのことを記録する際に、仏教的立場から書き取ろうとするのが常だ。すべて極楽や地獄、生まれ変わり、因果応報などについては、伝え方が簡潔なものと詳細なものとがある。どこの国でも、昔からあることなので、釈迦が初めて伝えたのではない。

これらの話は、もともと仏教に関係がない。それなのに仏教学者たちは、事実を無理にこじつけ、仏教の経典をつけ加えた。さらに物事が起こった訳をよく検討せず、儒教の経典の一部分を見て判断しがちだ。

今あらためて仏教思想が渡来する前の和漢の書をひもとき、昔から伝えられている事柄を詳しく読み解き考察すべきだろう。

文政6癸未(みずのとひつじ)年(1823)5月8日

伊息廼屋(いぶきのや…篤胤の雅号)のあるじ記

さて、産土(うぶすな)の神について、最近見聞きしたことをいくつか伝えよう。

ここから産土の神に関わる不思議な事例が紹介される。

 

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