トップページ > 「前世知る少年」平田篤胤『勝五郎再生記聞』を読む

前世知る少年 秋田魁新報連載 平田篤胤『勝五郎再生記聞』を読む

第三回 霊魂の行方を探求 妻への思いと重ねる

前世知る少年 勝五郎

簗瀬均氏、秋田魁新報社の許可を得て掲載しています。大きな画像はこちら


妻織瀬(おりせ)は、平田家の家計を切り盛りし、篤胤の研究生活を支えた。だが1812(文化9)年、病にかかり数え年31歳で逝った。篤胤が「前世知る少年」の存在を知り霊魂の行方を探求することになったのは、妻への思いと重ね合わせたからなのだろう。

篤胤は、1823(文政6)年4月22日から25日にかけて勝五郎を自分の学舎に招き、直接本人から話を聞き取った。篤胤は一人で聞き取るのではなく、学舎の友人や知人、門弟の協力を得て、複数の耳と目で判断し、記録している。同年6月には『勝五郎再生記聞』として出版。同年8月、著書は仁孝天皇や光格上皇に献上され、御所や都で大変な話題となった。

『再生記聞』は、多門伝八郎が取り調べた内容から記されている。前世の記憶を事実だと認めた幕府のお墨付きを得て、篤胤の聞き取りが始まったのである。

(以下の『再生記聞』は著者による口語訳)

これは武州(東京埼玉周辺)の地頭(領主)多門伝八郎が1823(文政6)年4月19日に、御書院番頭佐藤美濃守へ提出した届書の写しだ。以下は届書の内容 私…(多門)の知行所(領地)武州多摩郡中野村(東京都八王子市東中野)の百姓源蔵の倅(せがれ)勝五郎は、去る午(うま)年(文政5年)8歳の秋、姉に向かって前世から生まれ変わったいきさつを話した。でも姉は幼い子供の話だから、まともに取り合わなかった。それでも勝五郎が、たびたび生まれ変わり話を繰り返すので、姉は不思議に思って父母に相談した。

この年12月、あらためて父源蔵が勝五郎に尋ねたところ、前世の父は同国同郡小宮領程久保村(東京都日野市程久保)の百姓久兵衛(後に藤五郎と改名)。勝五郎の前世は、久兵衛の息子で「藤蔵」といった。藤蔵が2歳のとき実父久兵衛が病死。母は半四郎(継父)と再婚。自分(藤蔵)は6歳のとき、疱瘡に罹(かか)り病死したという。

それから藤蔵は源蔵の家に生まれ変わったと言った。その話の内容が詳細で正確だったため、村役人に申し出て再度調べた結果、村中の評判になった。程久保村の継父半四郎の家にも話が伝わり、半四郎の知行所役人が、源蔵の家へ訪ねて来て調べたところ勝五郎の話に偽りはなかった。勝五郎が前世の父母の顔かたちや住居なども話したので、勝五郎を程久保村の半四郎の家に連れて行って確かめたところ、全く相違なかった。

程久保村の家族に対面させると、以前六歳で病死した藤蔵という子供が確かにいたことが判明。以降今春まで家族ぐるみで仲良く付き合ってきた。このことは近村にも知られ、最近は毎日、勝五郎を見物に諸所から訪れる者がいるので、知行所が勝五郎親子を呼び出して調べたところ、右の通りの内容を勝五郎親子が語った。このことをもってむやみに世間の騒ぎを抑えるのは何かと取り扱いにくいが、表立てず御耳打ちする次第である。以上、4月、多門伝八郎。

中根宇右衛門殿知行所、武州多摩郡小宮領程久保村百姓、実父藤五郎(久兵衛)、継父半四郎。藤蔵、1805(文化2、乙丑)年出生。1810(同7、庚午)年2月疱瘡を病み、4日昼四ツ時ごろ(9~11時)死去。享年6。葬地は同村の山。菩提所は同領三沢村禅宗医王寺。去る1822(文政5、壬牛)年に十三回忌を迎えた。

  • 藤蔵継父、半四郎当未(ひつじ)50歳。藤蔵母、しづ当未49歳。
  • 半四郎子、藤蔵。異父弟妹、男子二人女子二人。
  • 藤蔵実父、藤五郎、若いころの名は久兵衛。文化3丙寅年、藤蔵2歳の時48歳で死去。半四郎が入り婿となり家を相続。

勝五郎の前世とされる藤蔵の実父「藤五郎(とうごろう)」は、代々当主に付ける名だったようだ。実母しづは日野本郷下河原(日野市日野)出身で藤五郎の後妻。継父半四郎は、平村(日野市南平)出身。藤蔵の両親は日野近辺の出身であり、後に生まれ変わったとされる中野村とは縁がない。

 

このページの先頭へ