トップページ > 「前世知る少年」平田篤胤『勝五郎再生記聞』を読む

前世知る少年 秋田魁新報連載 平田篤胤『勝五郎再生記聞』を読む

第十二回 念仏と六地蔵の御利益 生まれ変わりを導く

前世知る少年 勝五郎

簗瀬均氏、秋田魁新報社の許可を得て掲載しています。大きな画像はこちら


勝五郎の前世とされる程久保村(東京都日野市程久保)の藤蔵の生家前には、六地蔵がある。ここで女念仏講が2世紀にわたって行われてきた。近くには、安永9(1780)年の馬頭観音が残っており、藤蔵の実父か祖父が建立したと伝えられる。藤蔵の一家は信心深い家系だったようだ。一方、生まれ変わったとされる勝五郎の家族については、池田冠山著『前生話』に、祖母つやが「明け暮れ念仏を唱えていた」と記されている。

こうした信仰心が、藤蔵の生まれ変わりに何らかの影響を与えたのだろうか。

念仏の御利益は昔から信じられてきた。平安後期の学者三善為康(みよし・ためやす…1049~1139年)は、熱心な浄土信仰者だった。浄土信仰とは、阿弥階仏(あみだぶつ)の救いを信じ、死後、仏の住む極楽浄土に往生することを願う信仰だ。為康は50歳を過ぎると毎日念仏を1万回唱えた。91歳で亡くなる際、長年念仏を唱えた功徳により極楽往生できると固く信じていたという。

為康が、念仏を唱えて極楽往生したといわれる人のもとを訪ね、その伝記を調べたのが『拾遺往生伝(しゅういおうじょうでん)』(1104年)だ。そこに「六地蔵」という言葉が、文献として初めて出てくる。

同書によると、大納言藤原経実(つねざね)の妻が重病になった時、母親が病気平癒のため薬師像を建立した。だが妻は、回復できないと自覚し、六地蔵像の建立を頼んだという。ここでは薬師が現世、六地蔵が来世(極楽浄土)に御利益ある仏として信仰されている。

ところが『今昔物語』(1110年ごろ)巻17の第23話の玉祖惟高(たまのおや・これたか)の霊験話では、六地蔵が死者をこの世に生まれ変わらせると告げる。

長徳4(998)年4月ごろ、周防の国(すおうのくに…山口県)の一ノ宮の宮司であった惟高は、にわかな病で急逝した。冥土をさまよっていると6人の小僧が現れ、「われらは六地蔵だ。おまえは神官だが、生前、われら六地蔵を信仰していた。その功徳により蘇生させるので、娑婆(しゃば…この世)に帰って六体の像を作り、謹んで敬いなさい」と告げられた。惟高は三日後に蘇生し、命あるものを救うため六地蔵を作って供養したという。

(頼富本宏(よりとみ・もとひろ)『庶民のほとけ』、日本放送出版協会、1984年)

地蔵菩薩の霊場としては青森県むつ市の恐山が有名だ。地蔵信仰を背景に死者供養の霊地として知られる。作家幸田露伴(こうだ・ろはん)の明治25(1892)年の紀行文「易心後語(えきしんこうご)」からは、恐山に集まった人々が死者のために念仏を唱えたり、さい銭を投げたりしている光景が記されている。

さて『再生記聞』に戻ろう。

7月、庭火(かがり火)をたくころに家へ帰ったが、団子などが供えてあった。遊び過ごしていて、ある時、付き添ってくれた老人と一緒に家(中野村の勝五郎の父となる源蔵宅)の前の道を歩いていると、老人が家を指して「あの家に入って生まれなさい」と言った。

『前生話』では「じいさまが、(藤蔵よ)もう死んでから3年たったから、あの向こうの家に生まれろ。おまえのばあさんになる人はいい人だから、あそこに宿れ、と言ってじいさまは先に行ってしまった」とある。祖母が勝五郎から聞いた内容を、池田冠山に伝えた話が『前生話』である。祖母は「明け暮れ念仏」を唱える信心深い人だったので、不思議なじいさまに「いい人」と評されたのはうなずける。

『前世話』で、藤蔵は仏の御利益で生まれ変わったように描かれている。行く先は誠実で信心深い人がいる家がふさわしい。このように考える当時の価値観が、話にも影響しているように思われる。

 

このページの先頭へ