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前世知る少年 秋田魁新報連載 平田篤胤『勝五郎再生記聞』を読む

第三十三回 金毘羅山の霊験 禁酒の約束破り高熱

簗瀬均氏、秋田魁新報社の許可を得て掲載しています。大きな画像はこちら


神々に関わる不思議な話が紹介される。石工の弟子が病を治すため、好きな酒を断ち、金比羅(こんぴら)の神に祈願したら全快した。だが鎮守の神の祭りの日、断ったはずの酒を人々から強く勧められる …。

倉橋与四郎氏(幕府の役人か)が拙宅(篤胤(あつたね)宅)を訪れて、次のような話をした。

文化12(1815)年のことだ。小石川戸崎町(東京都文京区小石川)に住む石屋長左衛門という石工の弟子・丑之助(うしのすけ)は、重い瘡毒(そうどく…梅毒)を患った。病状を診た医師は、「これは治らない」とさじを投げた。

丑之助は人並み外れた大酒飲みであったが、讃岐国(香川県)象頭山(ぞうずさん)の神に、酒を断って願を掛けたら、あれほど重かった病気が、だんだんと良くなった。だが、もともと酒が何よりの好物だった丑之助は禁酒ができず、時々「酒しほ」と名付けて野菜に洒を浸して飲むことがあった。

ちなみに讃岐国象頭山の別当寺(神社を管理する寺)は松尾寺金光院だ。この寺には、秘密の事柄が書かれた正確な伝記がある。それによると、象頭山は、元は琴平(ことひら)といい、大国主命(おおくにぬしのみこと)の和御魂(にきみたま)である大物主神(おおものぬしのかみ)を祭った山だった。

        

大国主命が持つ荒御魂(あらみたま…荒々しく勇猛な神霊)と、和御魂(柔和な徳を備えた神霊)のうち、和御魂を持つのが大物主神である。大物主神は、大国主命の「優しい魂の分霊」といえようか。

だが修験道の開祖役小角(えんのおづぬ)が、象頭山に登った時、天竺(てんじく…インド)にある金毘羅の不思議な霊験にあったことから「金毘羅」という名前に改めたという。琴平の大物主神と金毘羅とを混合したのである。

これは三輪山(奈良県桜井市)の大物主神を、比叡山の大宮(日吉大社)に勧請したのと似ている。だからこそ松尾寺金光院の秘蔵の書籍には、出雲大社、三輪山、比叡山の大宮の祭神が、同じ大物主神だとある。

なおこの後、金毘羅には、保元の乱で讃岐に流された崇徳(すとく)天皇(1119~64年)の御霊(ごりょう…怨霊)を白峰宮(しらみねぐう)から遷して一緒に祭ったという説もあるが、書籍の記録はない。しかし世間に広く知られている説だ。やがて神の御心(みこころ)があれば、真実だと世に知られる時も来るだろう。

以上のように金毘羅という名前こそ仏ではあるが、実体は全く尊い神なのであり、決しておろそかに思ってはならない。

世間一般の神道者や修験者などは、独自に金山彦命(かなやまひこのかみ…鉱山の神)であるという説を主張する。これは「金毘羅」の「金」の字から思いついた杜撰(ずさん)な言い分であり根拠がないことだ。

さて丑之助の話に戻る。その年の9月10日は、例年のように土地の鎮守氷川大明神の祭りだった。その前日に、地元の若者たちが丑之助に言った。「おまえは狂踊り(たわれおどり…扇合わせという舞い)が上手なので、いつものように明日、踊ってくれ!」

すると丑之助が首を横に振った。「何を言うか! 俺は瘡毒が治らず死ぬ寸前だった。それが金毘羅様に願を掛け、酒を断ったら治ったのだ。このことは、おまえたちも知っているはずだ。酒は飲まれない! 酒を飲まないで、あの踊りをやるのか? 俺はできないよ」

それに対してみんなが強引に言った。「明日は鎮守の神様の祭りだぞ。だから特別さ。いつもとは違うんだ。酒を大いに飲み、踊りをやってくれ。大丈夫さ!」

丑之助は「そうか。その通りだな…」とうなずき、祭りの当日は、朝から友人たちと酒を酌み交わして遊びほうけ、すっかり酔いしれていた。

ところが巳の刻(午前10時ころ)あたりから、にわかに高熱が出て苦しみだした …。

金比羅の神との約束を破り、高熱にうなされる丑之助はどうなるのだろうか。

 

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