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前世知る少年 秋田魁新報連載 平田篤胤『勝五郎再生記聞』を読む

第二十五回 勝五郎の生まれ変わり話 子々孫々と語り継ぐ

前世知る少年 勝五郎

簗瀬均氏、秋田魁新報社の許可を得て掲載しています。大きな画像はこちら


勝五郎の没後、妹のつねが勝五郎を祀(まつ)る人が絶えないように願って碑の建立を発願し、自由民権運動家の佐藤俊宣(さとう・としのぶ…1850~1929年)に草稿を依頼した。だが碑の建立まで至らなかった。俊宣は新撰組の後援者だった日野の名主(村長)佐藤彦五郎の息子。母は土方歳三の姉だ。

さて勝五郎の実家である父源蔵の家はどうなったのか。安政2(1855)年、源蔵は80歳で亡くなった。この時、勝五郎は既に結婚し分家していた。天保14(1843)年、中野村『宗門人別御改帳』には源蔵の家の欄に「乙次郎32歳」とあり、この時点で源蔵の家督を継ぐべき勝五郎の兄乙次郎は生存していた。だが、その後の消息は分からず源蔵が死去したとき乙次郎は既に死亡していたようだ。源蔵の家は継ぐ者がなく絶家となった。

だが、隣家の造り酒屋「十一屋」に嫁いでいた勝五郎の姉ふさの娘婿・重蔵が動いた。十一屋の当主を継ぎ中野村の名主(村長)でもあった重蔵は、家督を長男重助に譲り、明治3(1870)年4月15日、義母ふさの実家に入って源蔵の家を再興させた(南多摩郡由木村役場戸籍謄本)。

その後、重蔵は勝五郎の妹つねの四男健吾に源蔵の家を継がせようとしたが果たせず、再興は重蔵一代で終わった。源蔵の家の墓は十一屋の子孫が守ってきたようだ。

こうして勝五郎の家族をはじめ関係者は代々移りゆくのだが、人々は勝五郎の生まれ変わり話を子々孫々と語り継いできた。そして平田篤胤(あつたね)著『勝五郎再生記聞』をはじめ、池田冠山著『勝五郎前生話』などいくつかの書籍が後世に残った。

明治30(1897)年9月、小泉八雲が米国と英国で『仏の畠の落穂』を出版。そこで「勝五郎の転生」を執筆し、海外に生まれ変わり話を紹介した。1957年、米バージニア大学医学部精神科主任教授イアン・スティーブンソンは、八雲が紹介した「勝五郎の転生」を読み、「生まれ変わり現象」の研究を始めた。以来今日まで同大学医学部知覚研究所は、死後の魂(意識)について研究を重ねている。

ところで篤胤は、なぜこれほどまでに死後の世界に関心を寄せたのか…。江戸時代後期、西洋科学がわが国に浸透していた。天動説は成り立たず、地球が太陽の周りを回る地動説が真実であることを篤胤はすでに知っていた。だが天体観察して法則を見いだす西洋科学にも篤胤は飽き足らなかった。より根源的に宇宙の起源とは何かを探求した(『霊能真柱(たまのみはしら)』1813年)。

篤胤は、世界の始まりを『古事記』の神話に見つけた。国内外の文献をあさり、世界の神話とも比較した。西洋科学を学びながらも日本古来の儀礼や風習、伝承なども研究。聞き取りといった民俗学的な調査方法を取り入れた先駆者でもある。そして篤胤の世界には、死後の世界も含まれていた。その世界が、いかなるものなのかを「幽冥(ゆうめい)論」として理論付け、裏付けになる事例を求めていた。そこに勝五郎が現れたのである。

今、勝五郎の前世とされる藤蔵の家の当主小宮豊さん壽子(ひさこ)さん夫妻をはじめ、日野市郷土資料館の学芸員北村澄江さんらを中心に構成する「勝五郎生まれ変わり物語探求調査団」が研究を深めている。

「ほどくぼ小僧 勝五郎生まれ変わり物語―勝五郎生誕200年記念展」が今月19日から11月15日まで日野市立新撰組のふるさと歴史館で開催されている。

 

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