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前世知る少年 秋田魁新報連載 平田篤胤『勝五郎再生記聞』を読む

第三十回 信仰の在り方 地元の神を最優先に

簗瀬均氏、秋田魁新報社の許可を得て掲載しています。大きな画像はこちら


地元の神への奉仕は、主君に仕えるのと同じことだと篤胤(あつたね)が説明する。

『塵添壒囊抄(じんてんあいのうしょう)』(室町末期の百科事典)は、地元の神を熱心に信仰し、余裕があれば他の土地の神から御利益をいただくべきだと、神に仕える考え方を論じている。

神への奉仕の仕方について、『神宮雑事(じんぐうぞうじ)』という秘録は、自分のあるじ(地元の神)を差し置いて、他のあるじ(他の土地の神)に従うようなことをしてはならないと説く。

あからさまに地元の神を差し置いて、他の土地の神の御利益をいただこうとするのは、あたかも主君に背いて、他の土地に君主を求めるかのようだ。道理に合わないことだと知るべきだ。

だからたとえ狭い土地にいても、地元の神の恩徳をないがしろにしてはならない。地元の神社が破損すれば、自分がどんなに破れた着物をまとおうが、餓死を覚悟で神社の修復に奉仕すべきだ。

今思うと、仏のことでは、破れた着物をまとっても命をかけて行動する人が多い。だが自分のよりどころである神のことでは、そういう人がいないのがたいそう残念だ。

もしも地元の神が、信仰心のない者の過ちをとがめて崇(たた)ったら、どんなにお願いしても、他の土地の神は助けてくれないだろう。逆に他の土地の神の崇りを受けたときは、地元の神が大いなる恵みを持って崇りを鎮めてくれるだろう。こうしたことを理解して神に仕えるべきだ。

これは神の実際のありさまをうかがい得た内容であり、僧にとってはとりわけ心に響く意見だ。

なお僧の中にも、まれに心の機微が理解できる者がいる。『新拾遺(しゅうい)和歌集』(14世紀半ばの勅撰和歌集)で法印源染が詠んでいる。「後の世も此の世も神にまかするや おろかなる身の頼りなるらむ」(あの世もこの世も神に任せよう。神が愚かな私の頼りになるだろう)

同歌集には藤原雅朝 朝臣(あそん)の歌もある。「さりともとねても覚めても頼むかな おろかなる身を 神にまかせて」(よもやいつも頼むのだ。愚かな身を神にゆだねて)

『続後拾遺(しょくごしゅうい)和歌集』(鎌倉時代の勅撰和歌集)の権大納言二条為世(ためよ)(鎌倉後期の歌人、藤原定家のひ孫)の歌に、「後の世も此の世も神のしるべにて おろかなる身のまよはずもがな」(あの世もこの世も神の導きであるから、愚かな私は思い悩まなくていい) とある。以上3首は同じ心情を詠んだ歌だ。

また、鎌倉後期の僧無住(むじゅう)道暁が『沙石集(しゃせきしゅう)』(仏教説話集)に次のような逸話を載せている。三井寺(みいでら)の公顕僧正(こうけんそうじょう)は、言葉で説く教えの「顕教(けんぎょう)」と祈祷など秘密の教え「密教」の両方を学んだ学僧で、信心深い人として評判高かった。

高野山の明遍僧都(みょうへんそうず)は、公顕僧正を慕い、善阿弥陀仏という隠遁者(いんとんしゃ)に公顕のことを語った。そして善阿に、公顕の優れた立ち居振る舞いを見てくるように言いつけた。

善阿は高野檜笠(ひがさ)に、丈が短い黒衣を着て三井寺に行き、訪問した理由を告げた。そして自分は高野山から派遣された旅の僧だと語った。すると公顕は、善阿を喜んで招き入れ、夜もすがら話がつきなかった。

翌朝、公顕は浄衣(じょうえ)を着て幣束(へいそく…お祓いに使う紙を挟んだ木)を持ち、一間の帳(とばり)を掛けている所に向かって何かしらの所作(礼拝(らいはい)など)を行った。善阿は、意外な作法だと思った。これが3日間ほど続いた。様子をじっと見ていた善阿は公顕に質問した。「毎朝の御所作が風変わりに見えます。あれはいかなる行いですか」と。公顕は答えた…。

この後、僧侶である公顕が意外な発言をすることになる。

 

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