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前世知る少年 秋田魁新報連載 平田篤胤『勝五郎再生記聞』を読む

第四回 「生まれ変わり」告白 家族には理解されず

前世知る少年 勝五郎

簗瀬均氏、秋田魁新報社の許可を得て掲載しています。大きな画像はこちら


幕府旗本多門伝八郎による取り調べは、前世とされる藤蔵の家族から、勝五郎の家族にまで及ぶ。多門は上司である御書院番頭に経緯を報告し、「勝五郎が文化12(1815)年10月10日に再生した」と明記した。今年は、勝五郎生誕200年に当たる。

多門伝八郎殿の知行所(領地)武州多摩郡柚木(ゆぎ)領中野村(東京都八王子市東中野)の百姓源蔵の次男、当未(ひつじ)9歳、勝五郎は文化12年乙亥年10月10日再生した。前世は、程久保村藤五郎(最初の名は久兵衛)の子藤蔵だったが、6歳のとき疱瘡(天然痘)で病死した。文化7年に死去して6年目のことだ。

勝五郎の父は小谷田氏という。源蔵、文政6(1823)年当時49歳。源蔵妻、勝五郎母せい、39歳。勝五郎母せいの父は、尾州家(尾張徳川家)の家来で村田吉太郎。せいが3歳のとき、吉太郎は訳があって浪人になり、文化9(1812)年10月10日56歳で死去したという。

源蔵母、勝五郎祖母つや、72歳。源蔵娘、勝五郎姉ふさ、15歳。源蔵長男、勝五郎兄乙次郎14歳。源蔵娘、勝五郎妹つね4歳。(以上が地頭(領主)である多門伝八郎が、幕府の御幸院番頭へ提出した届書の写し)

この後『再生記聞』は、気後れして話したがらない勝五郎を、なだめすかしながら聞き出す篤胤。そのやりとりを親友の国学者伴信友(ばんのぶとも1773~1846年)が記録している。後に篤胤は、信友と不仲になる。

去る文政5(1822)年11月ごろ、当時8歳の勝五郎は、姉ふさや兄乙次郎と一緒に田んぼの辺りで遊んでいた。勝五郎は兄に向かってふと「兄さんは、元はどこの誰の子で、この家に生まれてきたの」と尋ねた。兄が「そんなこと知るはずがないだろ」と答えると、勝五郎は今度姉に向かって同じような質問をした。

姉が答えて「生まれる前に、どこの誰の子だったかなんて、どうやって分かるの、おかしなことを質問するね」と大きな声を上げた。それを聞いて勝五郎は、なおも納得できない様子だった。勝五郎が再び尋ねた。「それなら姉ちゃんは生まれる前のことは知らないのか」

姉が聞き返した。「おまえは知ってるのか」。勝五郎は答えた。「おらは、よく覚えている。元は程久保村の久兵衛という人の子供で藤蔵だった」。姉は勝五郎が変だと思い、このことを父母に告げようかと言うと勝五郎はたいそう謝り、「親たちに言わないでほしい」と泣いた。姉は「それなら言わない。ただ悪いことをして止めても聞かないときは絶対に言いつけるよ」と約束して、その場は収まった。

その後もけんかをするたびに、姉が「あのことを(両親に)伝えるよ」と言うと勝五郎は、すぐおとなしくなった。この様子をいぶかしく思った両親と祖母は、勝五郎の姉に何のことかを尋ねたが、姉は隠して話さなかった。

勝五郎が親に隠れてどんな悪いことをしているのかと心配した両親は、勝五郎に分からないようにして、ひそかに姉を自白させようとした。姉はついに隠し切れず、ありのままに語ったが、両親と祖母は疑いを一層深めるばかりだった。そこで勝五郎本人を、なだめすかして尋ねると、しぶしぶと語り始めた。

「おらは、もと程久保村の久兵衛の子で、母親の名は、おしづといった。おらが小さいときに久兵衛は死んで、その後、半四郎という人が来て、おらの継父になって、かわいがってくれた。でも、おらは6歳の時に死んだ。その後、今の家の母親の腹に入って生まれ変わった」と言った。

そうは言うものの幼い子供のたわいのない戯れごとのように受け取られた。しかも信じがたい内容だったので、まともに相手にされず時が過ぎていった。

 

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