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前世知る少年 秋田魁新報連載 平田篤胤『勝五郎再生記聞』を読む

第十七回 前世の家族と交わる 勝五郎が親睦を願う

前世知る少年 勝五郎

簗瀬均氏、秋田魁新報社の許可を得て掲載しています。大きな画像はこちら


前世の家を祖母と訪れた勝五郎は、周囲を見て前世に住んでいたころと、今の様子が異なっていることを語った。どれも事実と一致していたので、家族はますます驚いた。

勝五郎の前世とされる藤蔵が生まれた武州多摩郡程久保村(東京都日野市程久保)は、明治2(1869)年の程久保村絵図によると民家25軒、村域の8割が山地だった。

現在は東京都の西部に位置し、多摩川の中ほどを西に渡った緑豊かな台地にある。近くには多摩動物公園や大学があり、若い人でにぎわう。新撰組の土方歳三が活躍した土地でもある。

藤蔵が生まれ育った小宮家は、『再生記聞』にある「三軒並んだ真ん中の家で、裏が山に続く」という当時の景観を今に残す。江戸時代の家屋は建て替えられたが、所在地は当時のままだ。向かいの「たばこや」も、商売は営んでいないが同じ場所にあり、今も「たばこや」、藤蔵の家は「西の家」とそれぞれ呼ばれている。

江戸後期の真宗仏光寺派の学僧、信暁(しんぎょう…1774~1858年)の著書『山海里』の初篇巻之2「前生を知りたる事」にも藤蔵の家を訪れた勝五郎の様子が描かれている。

「(勝五郎が)祖母より先に家に入り、台所に座って、『ここの壁は以前なかったが、戸が入れられている』などと言うので、家族みんなが驚いた」とある。

そして「顔立ちや声までが藤蔵と同じなので、(藤蔵の母が)懐かしく寄り添うと、『おまえはかか様じゃ。わしは藤蔵じゃ』と言った」。そして藤蔵の家族が、勝五郎をわが家に受け入れたいと申し出ると、勝五郎が「いえいえ、今おらには父と母がいるので、両家においてください」と答えた。こうして今の両親と過去の両親が相談して、その後は両家の子になっているとある。

この日、勝五郎と祖母は中野村に帰ったが、その後も勝五郎は「程久保村へ行きたい。久兵衛(前世の実父)の墓参りがしたい」とせがんだ。だが父源蔵はあえて構わないでいた。そうしているうち、前世の家の半四郎たちが源蔵の家へあいさつに訪れた。

そして勝五郎に程久保村へ行かないかと誘った。勝五郎は久兵衛の墓参りができると喜び、一緒に程久保村へ行った。墓参りが済むと、勝五郎は夕暮れに送られて家に戻った。

以来、勝五郎は父源蔵に「半四郎の家と親類の付き合いをしてほしい」と頼んだ。源蔵は暇ができたら連れて行ってやろうと思っていたところ、今回、中野村の領主である多門伝八郎に呼ばれたので、江戸を訪れることになった。

文政6年4月29日 伴信友 記

米バージニア大学医学部知覚研究所によると、貧しい家庭の子が、前世は裕福な家庭の子だったとして、前世の家庭から経済的な援助を得ようとするケースがあるという。

だが勝五郎の祖父の実家である小谷田家は中野村(八王子市東中野)の大地主であり、分家への援助がなかったとはいえまい。また勝五郎の家では百姓の傍ら家族総出で目籠(物を入れる竹寵)作りをしていたので、あえて山越えして程久保村の藤蔵の家に援助を頼む理由が見当たらない。当時の藤蔵の家の経済状況がいかほどなのかを、数え年8歳の勝五郎少年が知るよしもない。

同大学の調査では、前世の居住地から25キロ以内に生まれ変わる事例が多いものの、前世と縁がある地域については、距離にかかわらず生まれ変わるようだ。

前世で亡くなった場所の近くに生まれ変わったり、妊娠する前後に両親のどちらかが、前世の居住地や亡くなった場所にたまたま滞在したら、出生した子供がその前世を語った。また、亡くなる前に生まれ変わる先の家族名を口にし、その通りに生まれて前世を語ったという事例もある。

こうした生まれ変わり現象を、同大学教授だった故イアン・スティーブンソン博士は公表した。だが博士は、あくまでも前世を記憶する子供たちがいたという事実のみを紹介し、自らの学説を主張していない。「(同大学の)事例報告をつぶさに読んだうえで、各自が自分なりの結論を考えるべきであり、私の解釈は重要でない」と謙虚である(イアン・スティーブンソン『前世を記憶する子どもたち』日本教文社、1990年)。

 

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