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前世知る少年 秋田魁新報連載 平田篤胤『勝五郎再生記聞』を読む

第十八回 勝五郎の証言 チーム組み聞き取る

前世知る少年 勝五郎

簗瀬均氏、秋田魁新報社の許可を得て掲載しています。大きな画像はこちら


前世の家である半四郎の家族と親しくなった勝五郎は、父親に「半四郎の家と親類付き合いをしてほしい」と頼んだ。

(ここからは篤胤の記述。文政6(1823)年5月8日と6月7日の2度にわたって書かれた)

この不思議な子供について、ある人(池田冠山)の書いたものが読まれるようになったことで、勝五郎父子は中野村の領主である多門伝八郎(おかど・でんはちろう)に呼び出され、調べられた。そして領主の家来に届書を出したという。

私(篤胤)がその届書の写しを見ていると屋代弘賢(やしろ・ひろかた)翁(1758~1841年、幕臣、国学者、篤胤の理解者)が、「行って話を聞いてみてはどうか」と私に勧めた。そこで文政6年4月21日に多門家の家臣である谷孫兵衛を訪ねた。

その日、勝五郎と父源蔵は、ある人の計らいで駒込の西教寺という寺に出掛けていて会えなかったが、私は谷氏から事のあらましを聞いて帰った。

翌22日に谷氏の紹介で、源蔵が勝五郎を連れてわが家(篤胤の家)にやって来た。このことを屋代翁に知らせると駆け付けて来てくれた。

まず妻(後添い)と娘と嘉津間に言い付けて、勝五郎の気分を和ませながら話をさせた。私たちは物陰で聞いていたが、聞き漏らしが多くて気をもんだ。

嘉津間とは、神仙界と人間界とを行き来したといわれる少年。通称、仙童寅吉。文政3(1820)年江戸に現れ、当時篤胤の家に住み込んでいた。

4月23日、秋田にいる兄・渡辺正胤がわが家を訪れた。国友能当(くにとも・よしまさ … 鉄砲鍛冶)が風砲(小さな空気銃)を持ってきて、撃つまねなどをしていたら、谷氏が勝五郎を連れて来た。

伴信友が記しているように、勝五郎は生まれ変わりのことを人に聞かれるのをひどく嫌い、どこへ行くのも嫌がるという。昨日わが家に初めて来るときも、「絶対行かない」と言い張ったが、「少しだけだから」と、言い聞かせて連れて来たという。

そういう訳で無理に質問せず、家族や弟子たちに頼んで、心ゆくまで遊ばせながら、折を見て少しずつ話を聞くと、すこぶる機嫌が良くなった。終日遊び戯れて、「今夜はここに泊まりたい」とさえ言い出した。

だが谷氏の方に勝五郎の帰りを待つ人がいるので残念ながら帰した。翌日24日、勝五郎はやって来た。この日、居合わせたのは私の兄と国友能当、五十嵐常雄、志賀綿麻呂、細貝篤資などだった。

25日も父源蔵が勝五郎を連れてやって来た。明日は郷里へ帰るのであいさつに来たという。この日訪れたのは堤朝風、伴信友、国友恒足らだった。また私と信友と嘉津間と3人で、あれこれと機嫌を取ったり、おだてたりして話を聞くと「他の人のいないところで話す」と言うので庭に連れ出した。

勝五郎を抱き上げ、実っていた果物を取らせながら信友と一緒に尋ねたところ、全く子供の言葉で要領を得ず、声も小さい。

信友は何とか前後の脈絡を推測して前述の内容を記録したが、勝五郎が筋道立てて語ったのではない。この時、物陰で聞いていたのが堤朝風、国友恒足、土屋清道、矢沢希賢らだった。

篤胤は勝五郎を大事にしながら、チームを組んで証言を聞き取り、順序立ててまとめている。

その様子は、あたかも米バージニア大学医学部知覚研究所の故イアン・スティーヴンソン博士が、チームを組んで子供たちの証言を聞き取り、死後も残る魂(意識)のありかを探求したのと似ている。博士は子供たちの経験から、魂の本質を明らかにしようとした。

また博士が研究の調査対象とした子供や保護者、家族と交わした心温まる手紙からは、博士がいかに人々を大切にしたかがよく分かる.(同大・大門正幸博士)。同研究所では、現在も6人の研究者が人間の魂の解明を目指して日々研究を重ねている。

 

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