トップページ > 物語の解説 >物語の現代語訳『』珎説集記』より

物語の解説

物語の現代語訳 珎説集記より

日野や八王子に伝わるこの物語についても、次第に知られる様になり、言及されることもしばしばになりました。特に生まれ替わりの科学を扱う自然科学者にも事例として使われるようになりました。ただ物語の紹介の段落で、ときに間違いらしきものが見られます。これは古伝承研究の側に問題がなかったとも言えません。それで引用・紹介のときに使うのに利用しやすいものを作っておく必要があると考えます。

一番わかりやすいのはハーンが書いた英訳文とそれからの和訳文でしょう。しかしハーンを離れれば、それの直接の依拠史料となった『珎説集記』中の「生まれ替わり物語」が第一の資料となるでしょう。従って、それを使いやすいように呈示しておくことにしました。ハーン自身は、翻訳は原文の直訳体を推奨していますから、この江戸時代資料は利用の便から、重複や混乱を勝手に正しているので、ハーン自身が満足するものではないかもしれません。その点をどうぞお含み置きください。

珎説集記

(はじめに)

『珎説集記』(めずらしいお話しを集めた本)のなかの本話の始まる部分に栞代わりに貼付された紙片がある。恐らく雨森信成(あめのもりのぶしげ)によって貼り付けられた短冊状の覚え書きである。

「文政六年(1823)ひつじの歳、生まれ替わりのお話」

(1)多門(おかど)傳八郎の報告書の写し

勝五郎の件について。これは私の管轄している武蔵国多摩郡中野村のことですが、そこに住んでいる百姓の源蔵の2番目の子、勝五郎は今年9歳に過ぎません。

去年の秋、8歳だった勝五郎は、前世の自分が生まれ替わったことについてのあれこれをお姉さんに話しだしましたが、幼い子どもの言うことなので、お姉さんは取り合わないでいました。でもあまり同じ事を言い続けるので、とうとうお姉さんもおかしなことを言うものだと思いながらも両親に話しました。

昨年12月のうちにお父さんの源蔵が改めて問いただしたところ、勝五郎本人の言うところでは、武蔵国多摩郡小宮領内の程久保村のお百姓である久兵衛という者がお父さんであるということです。その幼い息子は6歳のときに疱瘡で病死してしまいました。そのあとで先にも述べた源蔵の家に生まれ替わったというのです。

にわかには信じられないことではありますが、子どもが何度も語る細かな点に食い違いがないことから、村の役職にある人達とも相談し、この件を正式に取り調べました。ほどなくこの噂が広まり、程久保と呼ばれる村に住む半四郎とその家族の耳にするところとなりました。そこで半四郎は私の管轄地である源蔵の家に赴き、男の子の前の生まれでの両親の外観・人相・風体について、また家の様子も子どもの言う通りであることがわかりました。勝五郎は程久保村の半四郎の家に連れていかれましたが、そこの人達も何年も前に6歳で亡くなった藤蔵に瓜二つだと言いました。

それからというもの両家はおりにふれ互いに訪れるという行き来が始まり、近隣の村人もこの件を耳にしたようです。今や、連日あちこちから勝五郎を一目見ようという人が、訪れるようになりました。

以上のようなことが、私の支配している地域(中野村)から報告がありましたので、源蔵を呼び出して取り調べを行ないましたが、源蔵・勝五郎両人とも右の通り答えたのです。本当のことであるとは信じがたい面もありますが、この件は一応ご報告に及んでおく次第であります。

(文政6年)4月多門傳八郎

        

(2)和直から泉岳寺の老僧貞鈞に宛てた書状の写し

右の報告書の写しは昨日の夕方に志賀兵右衛門様がお持ちになったもので、お目に掛ける次第です。 先日見せて頂きました冠山様のお書きになられました書き物に添えて頂くのが適当かと思いましたので、お届けいたします。

これは過日お見せ下された冠山様の書き物と添え書きと共に、そちらにてご保存なさるのが適当かと存じます。

6月21日和直

(3)冠山から泉岳寺の老僧貞鈞宛の書状の写し

勝五郎の生まれ替わり物語を同封いたします。仏のみ教えに信を置かない者共をも納得させる手段として、広く日常で用いられる話し言葉の文体にて書き連ねました。お座興にてお読み頂くばかりのものに過ぎませんが、私が自分で直接勝五郎の祖母より聴いたものなので、間違いはございません。ご一読の上はご返却下されます様。以上。

20日冠山拝

(4)貞鈞が序に書いた説明

この物語は事実であり、誤りは有りません。というのも江戸鉄炮州の松平冠山様が2月22日にその地にわざわざ足をお運びになり、勝五郎とお祖母さんにお会いなさり、この問題のすべてのことがらに質疑を糺し、お祖母さんの考えを語られたままに書き留めなさったからです。

冠山様はその後4月14日に寺にお出で下さり、直かにお話下さいました。それに加えて4月20日にその筆記をお見せ下さったので、取り敢えず稿本を作らせて頂いたものです。

文政6未年4月21日泉岳寺老僧貞鈞(花押―手書きの印)

(5)二つの家族の人々の名前

【勝五郎側の人名】

*武州多摩郡柚木(ゆぎ)領中野村小名谷津入(やついり)、多門傳八郎知行所(屋敷は根津七軒町)

百姓源蔵の次男勝五郎、当未年9歳、文化12年(1815)乙(きのと)亥(い)10月10

*父源蔵(苗字は小谷田 当未年49歳)

貧乏だったので、籠細工をして江戸に売に出ていた。宿泊所は馬喰町相模屋喜兵衛の所であった。

*母せい(源蔵の妻 当未年39歳)

せいの父は、尾州家の武士村田吉太郎といい御弓役として勤務していた。せいは12歳のときに本田大之進殿へ奉公したということである。せいが13歳のとき、吉太郎は事情があって失職し浪人になった。その後文化4年(1807)4月25日に75歳にて病死した。墓所は禅宗で下柚木村にある永林寺。

*祖母つや(当未年 72歳)

若いときに松平隠岐守殿に奥女中として奉公した。

*姉ふさ(今年15歳)

*兄乙次郎(今年14歳)

*妹つね(今年4歳)

【藤蔵側の人名】

*武蔵国多摩郡小宮領程久保村中根宇右衛門の知行所(屋敷は下谷新し橋通り)

藤蔵(6歳にて亡くなる)

文化2年(1805)乙(きのと)丑(うし)生まれ、文化7年(1810)庚(かのえ)午(うま)2月4日昼四つ時(午前10時)頃疱瘡により病死。葬られたのは程久保村の山。菩提寺は同領三沢村の禅宗医王寺。文政5年(1822)十三回忌。

*藤蔵の養父半四郎(苗字は須崎 当未年50歳)

*藤蔵の実母しづ(当未年49歳)

*藤蔵の実父久兵衛改め藤五郎

初め久兵衛と名乗る。文化5年(1808)戊辰(つちのえたつ)、藤蔵5歳のとき、48歳にて死去。そのあとに半四郎が入り婿となった。文政5年(1822)が十三回忌。

*藤蔵の異父兄弟 半四郎の息子 2名、同娘 2名

(6)[松平冠山殿による田舎の話しことばで書かれたお話しの写し]

〈勝五郎、姉に前世について語る〉

昨年の11月のある時、勝五郎は田圃でお姉さんのふさと遊んでいる折に、お姉さんに尋ねました。

「ねえちゃんは今の家に生まれる前はどこからきたんだい」

ふさは答えました。

「生まれる前に起こったことなんかどうして知ることができるんだい」

勝五郎は驚いた様子で声を上げました。

「そんなら生まれる前に起こったことは何も思い出せないのかい」

「おまえは覚えているの」ふさが問うと、

「ああ覚えているさ」勝五郎は答えました。「おいらは程久保の久兵衛さんの倅で、名前は藤蔵と言ったよ」

「ええっ」とふさがいいました。「このことをおとっつぁんやおっかさんに言うよ」

しかし勝五郎はたちまちに泣き出して言いました。

「どうか言わないでおくれよ。おとっつぁんやおっかさんに言うのはよくないよ」

ふさは少し間をおいてから答えました。

「ううん、今回は言わないであげる。でも次の時に悪さをしたら、言ってしまうよ」

〈両親、姉に糺す〉

その日からというものは2人の間に喧嘩が起こるたびに、姉が弟を脅して言いました。「ああそうなの、そんならあのことをおとっつぁんやおっかさんに言っちゃおうっと」
この言葉を聞くと少年はいつもお姉さんに負けてしまうのでした。こういうことが何回も起きました。ある日両親はふさが脅しているのを耳にしました。勝五郎が何か悪さをしているに違いないと考え、何が起こったのか知りたくなり、ふさに尋ねると、ふさは聞いた通りのことを喋りました。そこで源蔵夫婦と勝五郎の祖母であるつやはとても不思議なことだとびっくりしました。それから勝五郎を呼びつけ、初めはおだてて、次には脅して、前に言った言葉がどういうことなのか話させようとしました。

〈勝五郎、両親に語る〉

勝五郎は初めはためらいましたが、話し出しました。「おいらは何でも言うよ、おいらは程久保の久兵衛さんの倅だったんだ。その時のおっかさんの名はおしづさんというんだ。おいらが5歳のとき、久兵衛さんは亡くなった。その替わりに半四郎さんという人が来て、とてもかわいがってくれたよ。しかしその次の年、おいらは6歳で疱瘡で死んだんだ。その3年後にここのおっかさんのお腹に入って、生まれ替わったんだよ」

少年の両親とお祖母さんはこれを聞いてひとかたならず驚きました。程久保の半四郎という人についてわかる限り調べることにしました。しかし皆は日々の生計を立てるのに忙しく、他の事柄に割ける時間は殆どなかったので、計画をすぐ実行に移すことはできませんでした。

〈勝五郎、祖母に詳しく語る〉

さて勝五郎の母せいは毎夜4歳になった幼い娘つねに乳を飲ませなくてはならなかったので、勝五郎はお祖母さんのつやと寝ていて、時々寝床でお祖母さんとお話したりしていました。ある夜勝五郎の機嫌がよいときをねらって、つやは死んだときに何があったのか言ってみなさいと勧めました。そこで勝五郎は語りました。 「4歳までは何でもよく覚えていたんだけど、それからは段々と忘れてきたよ。しかし疱瘡で死んだことはまだ覚えている。地面に穴が掘られて、皆は壺を穴にいれたんだ。ぽんとおっこちた。その音はよく覚えている。それからどうにかこうにか家に戻って自分の枕の上に乗っかった。間もなくしてじいちゃんによく似たお年寄りがやってきて、おいらを連れていった。そのじいちゃんが誰でどんな人なのかは知らない。進んでゆくときはまるで空中を飛んでいる様だった。進んでいるときは夜でも昼でもなく、いつも日暮れ時の様だったのを覚えている。暑さ・寒さ・空腹も感じなかった。随分遠くまで行ったと思う。しかしそれでもいつも家で人の話し声がするのが、か細いけれど聞こえてきたよ。おいらのために唱えている念仏の声も。家の人が温かいぼた餅を仏壇の前にお供えしたときに、お供えの湯気を吸い込んだ。・・・ばあちゃん、仏様(尊い死者)に暖かい食べ物をお供えするのを忘れちゃだめだよ。お坊様に差し上げるのも忘れないで。こうしたことをするのはとってもいいことなのは間違いない。・・・それからあとはじいちゃんがぐるぐると回ってここに連れてきたのを覚えているんだけど。村の向こうの径を通ったっけ。それからここへ着くとじいちゃんはこの家を指していったんだ。『もうお前は生まれ替われ。死んでから三年経ったからな。この家に生まれ替わるんだ。ばあちゃんとなる人はとても親切だからな。ここでおっかぁの腹に入って生まれるのがよかろう』

こう言うとじいちゃんは去ってしまった。おいらは入口の前の柿の木の下にしばらく立っていた。それから家の中で話し声がするので、入ってみた。誰かが言っている。おとつぁんの今のかせぎは少ないから、おっかさんが江戸に奉公にいかなきゃなんねえだろうって。おいらは思ったよ。『ちょっとまっておこう』って。それで3日間庭に立ってたんだ。3日目におっかさんは江戸に行く相談が終わったので、その晩雨戸の節穴から家に入った。そのあと竈の中に3日いた。それからおっかさんのお腹に入れてもらったよ・・・産まれたときは全然痛くなかったのを覚えている。ばあちゃん、おとっつぁんやおっかさんには言ってもいいけど、よその人には言わないでおくれ」

〈祖母、両親に告げる〉

お祖母さんは源蔵夫婦に勝五郎が語ったことを話しました。それからは勝五郎は怖がらずに両親に自分の前世の話を気楽にするようになり、よくこう言ったものでした。

「おいら程久保に行きたいよ。久兵衛さんのお墓参りに連れていっておくれよ」源蔵は勝五郎は変わった子で、もしかしたら早死にするんじゃないかと思い、程久保に本当に半四郎という人がいるかどうかすぐ調べた方がいいと考えた。とはいうもののこうした状況でそうしたことをするのは、大の男の身で後先の考えがない人のように思われるのではないかと考え、すぐに自分で調べようとはしませんでした。そこで自分が程久保に行く代わりに、その年の1月20日に母つやに孫を連れていってくれないかと頼みました。

〈祖母、勝五郎と程久保へ〉

つやは勝五郎を連れて程久保へと向かいました。村へ入るとつやは手前にある家を指さして勝五郞に尋ねました。

「どの家なんだえ。この家かい、あの家かい」

勝五郎は答えました。「違うよ、もっと先」とつやの前になって先を急ぎました。ついにある家の前に着くと「この家だよ」と叫んで、お祖母さんを待たずに中に駆け込みました。つやも続いて中に入り、そこの人に家の主の名を問うてみました。

「半四郎」と一人が答えました。つやが半四郎の妻の名を尋ねると「しづ」という答えでした。それからつやはこの家に藤蔵という名の子供がいたかと訊くと「いたんだが、13年前に6歳で死んでしもうた」という答えがありました。

〈周りの大人も再生を確信〉

このとき初めてつやは勝五郎が本当のことを言っていたのだと得心し、涙を抑えることができませんでした。つやは家の人達に勝五郎が前世の記憶について語ったことのすべてを話しました。すると半四郎夫婦も大いに不思議なことと驚きました。二人は勝五郎を抱きしめて涙を流し、6歳で亡くなる前の藤蔵よりもずっとよい器量になったと言いました。そうしている間にも勝五郎はあたりを見回して、半四郎の家の向かいの煙草屋の屋根を認めると、それを指さして言いました。

「あれはなかったよね」。また言うには、「あそこの木もなかったよね」。

すべて本当であったので、半四郎夫婦の心から一切の疑いは消え去りました。

〈東中野に帰還〉

その日はつやと勝五郎は中野村谷津入に帰りました。その後源蔵は息子を度々半四郎の家に行かせて、前生の実父久兵衛のお墓参りをさせました。

時々勝五郎は言います。「おいらはののさまだから、どうか親切にしておくれ」また時々お祖母さんにも言っています。「おいらは16歳で死ぬと思う。でも御嶽様が教えてくれたことによると、死ぬのは怖いことじゃあないよ」。両親が「お前、お坊様になりたくないかえ」と尋ねると、「お坊様にはなりたくねえ」と答えました。

〈筆者である冠山の問い〉

村人はもう勝五郎とは呼ばずに、程久保小僧とあだ名をつけました。誰かが勝五郎を見ようと家を訪れると、勝五郎はたちまちに恥ずかしくなり、家の中に走り隠れてしまうのです。だから勝五郎と直かに話すことは不可能でした。私はお祖母さんが語った通りのそのままを書き記したのです。

私は源蔵かその妻、祖母つやのいずれかが善い行いをしたかどうか尋ねてみました。源蔵と妻は何も特に善行をしたことはないとのことでしたが、お祖母さんであるつやは絶えず朝な夕なに念仏を繰り返す習慣があり、僧侶か巡礼が門口に来ると必ず2文を布施していました。この些細なことを除けば、お祖母さんも特に善行というほどのことはしていないということでした。

これで勝五郎の生まれ替わり物語はおしまいです。


※現代語訳 松村 恒  『ほどくぼ小僧 勝五郎生まれ変わり物語 調査報告書』-改訂版―   調査報告⑪ 論考3 資料編15 参照

 

このページの先頭へ