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物語の解説

勝五郎の人物像

勝五郎は、どのような少年だったのでしょうか。

『勝五郎再生記聞』には、平田篤胤が、「少しも大人びたところがなく、荒々しい遊びを好み、普通の百姓の家の子どもとしては、賢い子どものようにみえた」と記しています。また、肥前平戸藩藩主松浦静山は、その著書『甲子夜話』に、「勝五郎は、賤しい百姓の倅に似合わず、いたって行儀がよく、おとなしく(略)、見たところ普通の子どもと少しも変わったところもなく(略)髪はけし坊主に結い、毛は赤く、面長でやせ形、色黒であるが、容姿も見苦しくなく賢い子どもと見受けられた。(略)古い紺立縞の木綿袷を着て、小倉縞木綿の帯を締め、腰には緋縮緬の縁取りのある守り袋を付け、白木綿の鼻緒をかけていた。」と、勝五郎に会った家人の報告を聞いて記している。面長でやせ形のごく普通の、しかしなかなか賢そうな少年という印象が伝わってきます。

大人になってからの勝五郎について伝えられていることはあまりありませんが、生家の近くに屋敷を設け、農業をしながら目籠の仲買を続けて、ずっと中野村で暮らしていました。明治2年12月4日55歳で亡くなった際に行われた葬儀は、永林寺の住職が輿にのって来るような、とても盛大なものだったそうで、勝五郎の生活は裕福なものだったようです。

勝五郎は、晩年には妻と離縁し孤独だったと伝えるものもありますが、宗門人別帳や戸籍簿の記載を調査すると、勝五郎には亡くなるまで妻なみがいたことがわかります。勝五郎がなみを娶ったのは嘉永元年(1848)12月のことで、なみは、片倉村(八王子市)の出身です。また、天保14年(1843)の「中野村宗門人別帳」(江戸東京博物館所蔵石井コレクション)によれば当時23歳の妻まんがいることがわかります。離縁か死別かはわかりませんが、少なくとも勝五郎にはまんとなみ、2人の妻が存在しています。

実子はなく、牛込神楽坂(新宿区)から与右衛門を養子として迎えました。 与右衛門は、中野村のさくと結婚しましたが、勝五郎の死後横浜へ出て行き、その後の消息は分かりません。

勝五郎の空屋敷は、中野村井戸上の金子権六が継承し、その子孫が勝五郎の墓所を守っています。

 

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