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物語の解説

藤蔵・勝五郎の家の人々

藤蔵の家族

須崎藤蔵(すざきとうぞう)は文化2年(1805)武州多摩郡小宮領程久保村(東京都日野市程久保)の百姓の家に生まれました。

藤蔵の実父は須崎久兵衛(後に藤五郎と改名)で、文化3年(1806)8月、2歳の藤蔵を残して48歳で亡くなっています。翌年、実母しづが婿をとり、平村の半四郎が藤蔵の継父となります。系図半四郎は藤蔵をいとおしみますが、文化7年(1810)2月4日、藤蔵は疱瘡のため6歳で亡くなりました。半四郎としづの間には、藤蔵の弟2人、妹2人が誕生しています。

勝五郎の家族

小谷田勝五郎(こやたかつごろう)は文化12年(1815)10月10日、武州多摩郡柚木領中野村(東京都八王子市東中野)に百姓源蔵の次男として再生しました。

父源蔵は、農業の傍ら副業に籠を作って江戸へ商いに出ていました。源蔵とせいは、源蔵が江戸で奉公していた時に知り合って所帯を持ち、文化6年長女ふさが生まれた後に、中野村へ戻りました。

勝五郎の祖父勘蔵は、武州多摩郡中野村の大地主小谷田家出身です。祖母つやは、若い頃は松平壱岐守の御殿女中をつとめていました。勝五郎の母せいの父親は、御三家筆頭尾張徳川家の家士で村田吉太郎という人でしたが、せいが3歳の時に浪人になりました。せいは、12歳の時に本田大之進家の下女となりました。

文政6年(1823)、江戸中が勝五郎の再生話で沸き立ち、池田冠山が『勝五郎再生前生話』を、平田篤胤が『勝五郎再生記聞』を著しました。勝五郎9歳、父源蔵49歳、母せい39歳、祖母つや72歳、姉ふさ15歳、兄乙次郎14歳、妹つね4歳の時です。

その後の消息

勝五郎の身内の人々の消息について、平成18~27年の調査で、以下のようなことが判明しました。調査はまだ、完全なものではありません。詳細は、『ほどくぼ小僧 勝五郎生まれ変わり物語調査報告書』(平成27年9月)をご参照下さい。

妹つねの一家消息

つねは、隣家の酒蔵十一屋で杜氏をしていた越後潟町(上越市)出身の山岸萬吉と結婚し、4男2女がいました。萬吉は、遅くとも嘉永6年(1853)には独立して四谷村(府中市)で酒蔵十一屋を経営していましたが、明治15年(1882)9月に廃業しました。四谷村に移住した当初は、市川太兵衛家に寄留していましたが、のち独立して屋敷を構え、農地も所有していました。

二男貴助(輔)は、佐藤彦五郎新選組資料館所蔵『慶応三年天然理心流門人帳』に門人として名前が見えます。

四男健吾(健五郎)は、祖父源蔵の家を再興した小谷田重蔵の養子になり、後を継ごうとしましたが、後に出奔し函館で生涯を終えました。

娘のとめは、東寺方(多摩市)で商店(酒類・目籠など)を営む森澤國平と結婚、その子孫は、現在も同地で商店を経営しています。とめは昭和11年頃に亡くなりました。とめの娘の1人は、北海道函館の山岸商店(森澤商店が目籠を出荷していた)に嫁いでいます。函館の山岸商店は、萬吉とつね、あるいはその子どもたちの誰かが経営していた可能性があります。つねは、明治20年代に、勝五郎の記念碑の建立を計画、日野宿の佐藤俊宣に碑文の作成を依頼しています。

姉ふさの一家の消息

ふさは、隣家十一屋(小谷田家)の当主市郎兵衛に嫁ぎ、2女がいましたが、明治3年以前に亡くなっています。

娘のさみは、宇奈根村(世田谷区)重蔵を婿として迎え、その子孫が現在も小谷田家を継承しています。(多摩市在住)。重蔵・さみ夫婦は、明治になって、家督を息子重助に譲ったのち、潰家となっていた父源蔵の家を再興、妹つねの四男健吾を養子に迎えました。しかし、健吾は、明治12年に出奔して函館にわたり、旭町というところで生活し、中野村に戻ることはなく、明治43年50歳で亡くなりました。

その他

兄音次郎は、天保14年『中野村宗門人別帳』に記載がありますので、天保14年以降安政2年の間に、一家をなさないまま亡くなったと思われます(安政2年に亡くなった父源蔵の墓は勝五郎が建立しています)。同人別帳に、文政6年当時は生まれていなかった勝五郎の妹「うた」(天保14年当時17歳)が記載されています。

 

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