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勝五郎と学者・文人たち

江戸時代の文人たち

詩文・書画などの文芸に親しむ人を文人と言いますが、文化文政期(1804~1830)は、文人たちが武士や町民などの身分の区別なく活躍した時代でした。特に、不思議な話や珍しい事物、怪奇(かいき)現象(げんしょう)などに多くの文人が興味を示しました。

このような世の中にあって、池田冠山の『勝五郎再生前生話』、平田篤胤の『勝五郎再生記聞』は多くの文人たちの注目を集めることとなりました。文人たちの著す多くの書物に勝五郎の生まれ変わり物語が記録され、冠山・篤胤がまとめたもの以外の情報も記述されています。その主なものを紹介します。

『甲子夜話(かっしやわ)』巻27(文政6年4月12日)
冠山の友人でもあった肥前松浦藩元藩主で文人としても有名な松浦静山(まつらせいざん)の随筆集。多門傳八郎(おかどでんはちろう)の届書などのほか冠山の『勝五郎再生前生話』も収録している。静山は、勝五郎について、百姓の倅に似合わず行儀が良い、手先が器用で籠細工が上手、少食で魚類を食べないと記し、隣人の荻野梅塢(おぎのばいう)宅にやってきた勝五郎の風貌を用人に見させ、「髪はけし坊主にて、毛赤く、面長く、痩せたる方にて、色黒く之れ有り候得共、容儀も見苦しからず、怜悧(れいり)の小児と見請け申し候(以下略)」と記している。
『睡余操觚(すいよそうこ)』巻15(文政6年4月)
江戸神田雉子町(東京都千代田区)の名主斎藤月岑(さいとうげっしん)(1804―1878)の著作。町名主として奉行所から呼び出しを受けた時に入手したと思われる「多門傳八郎届書」のほか、月岑が聞いた風聞が記されている。内容は、『甲子夜話』とほぼ同じであるが、勝五郎があの世であったのは、老人と地蔵とあり、冠山が勝五郎のことを様付けで呼び、自宅へも駕籠で送迎したとある。勝五郎親子は、江戸で冠山の屋敷へもいったのであろうか。月岑自身は、冠山のこの様子を、「何故に候や未だ分らず」と記している。 池田冠山と月岑は、冠山の最晩年に交流があり、月岑の日記に交流の様子が記されている。
『桑都日記(そうとにっき)』続編巻7
八王子千人同心組頭塩野適斎の著作。「文政五年壬午の冬十一月、柚木領中野村の百姓源蔵の子、勝五郎、九歳にして前生の事を語る(略)」とあり、程久保へ行ったのは両親と勝五郎であると記されている。同様の中国の例を引き、勝五郎の生まれ変わりを偽りと思わないほうが良いとしている。
『武蔵名勝図会』多摩郡之部巻6柚木領
八王子千人同心組頭植田孟縉(うえだもうしん)が著わした地誌。序文は池田冠山が書いている。「前生覚知の小童」と題して記述、程久保村へ行ったのは高幡不動参詣途中の母と一緒とされている。勝五郎の生まれ変わりが近隣だけでなく江戸にも伝わっていると書かれている。『桑都日記』とあわせて、地元で聞いた噂を記しているものと思われる点が貴重である。
『藤岡屋日記』(文政7年7月28日)
神田御成道(千代田区 秋葉原付近)で露天の古本業を営みながら、様々な情報の売買を以って稼業としていた須藤(藤岡屋)由蔵の日記。『勝五郎再生記聞』の要約を記しながら、両親兄弟のいるところで父源蔵から聞いた話を掲載しており、おそらく自身で中野村の勝五郎宅を訪ねたものと考えられる。勝五郎の生まれ変わりは、情報屋の藤岡屋が現地調査をするに足る値打ちの情報だったということになる。同日記によれば、藤蔵の墓は、道も遠く途中に荒れた畑山もあるので、父親の埋められた墓ではなく、家の裏山に新たに墓所を掘って埋められたという、外にはどこにも記されていないことが書かれている。藤岡屋が、本当に源蔵宅で聞き取り調査をしたとすれば、これはかなり信憑性の高い情報となるが、真偽は確かめようがない。藤蔵宅の裏山は現存しているが、高幡不動尊に移転する前の藤蔵の墓石は、父親と同じ、同家の畑のある向かいの山の墓地にあった。
『山海里』
京都の大行寺(浄土真宗 京都市下京区)の僧信曉の著わした仏教説話集。文政5年から安政5年(1858)にかけて刊行されたが、勝五郎の生まれ変わりは文政8年の項に記述されている。露姫の『応化菩薩辞世之事』も記されている。江戸だけでなく都においても勝五郎の生まれ変わりが話題となっていたことがわかる。
『視聴草(みさきぐさ)』2集7
江戸末期の旗本宮崎成身が、文政13年より30年以上にわたって手元にある資料を自らの著述とともに編さんした雑録。「幼女遺筆」として露姫の遺墨の刷り物が綴られているほか、「小児前生話」として、冠山の『勝五郎再生前生話』が収録されている。
『神判記實』
皇大神宮主典兼中講義の山口起業撰の神意霊験実話集。明治7年(1874)に出版された。巻上5に、「武蔵国多摩郡程久保村九兵衛倅藤蔵が再生して六とせ幽冥ニありし由を語る」がある。
『藁裹(わらくぐつ)』
時宗の僧侶であり国学者であった春登上人の随筆集(写本6冊 武蔵総社文庫蔵)。この中に「児、前世を知る」として、勝五郎のことが記されている(猿渡盛厚『武蔵府中物語』下による)。春登上人は、当時武州関戸(多摩市)延命寺の住職だった。
 

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