トップページ > 物語の解説 > 藤蔵・勝五郎ゆかりの場所

物語の解説

藤蔵・勝五郎ゆかりの場所

藤蔵の生まれた武蔵国多摩郡程久保(程窪)村(日野市程久保)は、江戸時代の村高は50石2斗3升5合。勝五郎の生まれた中野村(八王子市東中野)とは、境を接する隣の村でした。
>>現在の地図(google map)で藤蔵・勝五郎ゆかりの場所を見る
>>藤蔵が勝五郎に生まれ変わったいきさつを読む

藤蔵ゆかりの程久保村

程久保村ははじめは幕府領で、宝永4年(1707)に旗本曾雌(そし)氏と中根氏の相給知行地となりました。曾雌氏は上分(かみぶん)(上程久保・村の西側)の25石1斗1升8合を、中根氏は下分(しもぶん)(下程久保・村の東側)の25石1斗1升7合をそれぞれ知行しました。藤蔵の生まれた須崎家は下分にあり、下分の鎮守は神明社(程久保神明神社)です。村の約8割を山林が占め、薪・炭の生産が盛んでした。昭和30年代に東京都多摩動物公園ができ、宅地開発も進みましだが、かつては「程久保 細道 迷い道」などと歌われるほど山深い村でした。家数も江戸時代から大正時代まで25軒でした(現在は3万軒以上)。

六地蔵藤蔵の家を継承する小宮家は、今も当時と同じ場所にあり、勝五郎と祖母が歩いてきた道も、道幅が広がっただけで、当時のまま残っています。家の前には、六地蔵があり、藤蔵もこの前で遊んだことがあったことでしょう。また、近くの庚申塚には、藤蔵の実父藤五郎が建立した馬頭観音があり、当時を偲ぶことが出来ます。

小宮家には、藤蔵の位牌や過去帳のほか、露姫の法名が書かれた位牌があります。 ずっと誰のものかわからないまま大切にされてきましたが、露姫であることが判明、冠山が配った露姫の法名の刷物が、藤蔵の家にも伝えられていたことがわかりました。

勝五郎ゆかりの中野村

勝五郎の生まれた武蔵国多摩郡中野村(八王子市東中野)は、江戸時代の村高384石5斗6升4合、旗本多門(おかど)氏と勝田氏の相給知行地でした。勝五郎の生家は小名「谷津入(やついり)(八ツ入)」の「千谷戸(せんやと)(先谷戸)」にありました。鎮守は熊野神社で、明治22年から由木村東中野となりました。

熊野神社は、藤蔵の魂が黒衣の老人に連れられてやってきた場所といわれ、幕末に植えられた大銀杏が偉容を誇っています。勝五郎の生家は、昭和40年代から始まった多摩ニュータウンの開発にともなって移転し、現在は民間の大規模な住宅団地開発のため、当時を偲ぶことは出来なくなってしまいました。ただ、勝五郎の祖父勘蔵の兄忠次郎の家を継承している小谷田家は現在もすぐ近くにあり、勝五郎もきっと遊びに行ったことでしょう。墓は屋敷近くにありましたが、現在は八王子市柚木の永林寺に移転しています。

勝五郎の道(中央大学多摩キャンパス構内)

勝五郎の道勝五郎の道中野村と程久保村の村境は標高160~180mほどの山林で、中野村から程久保村へ通じる旧道は数本ありました。 中野村の勝五郎生家の隣に十一屋という造り酒屋があり、程久保村の人々は十一屋に酒を買いに行く時、また中野村の人々は高幡不動尊へ参詣に行く時などに、山林を通る道を利用して往来していました。

藤蔵の家のある下程久保へ通じる道としては、現在中央大学構内にその一部が現存している道が最短なので、勝五郎と祖母はこの道を利用したものと推察されます。


中央大学多摩キャンパスの開発工事は昭和40年代後半から始まりましたが、百周年記念ステージの裏から茶室「虚白庵」の手前までの100m程の道が、奇跡的に当時のまま残されており、調査団のメンバーにより発見されました。現在は、案内板も設置されています。当時を偲びながら、勝五郎とおばあさんに成り代わって歩いてみてはいかがでしょうか。

なお、多摩動物公園東側から藤蔵の家までの旧道は、道幅は広げられた箇所もありますが、当時の道が残っています。曲がりくねった細い道で、地元の人々からは「程久保の旧道」と呼ばれています。
>>藤蔵が勝五郎に生まれ変わったいきさつを読む

 

このページの先頭へ