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前世知る少年 秋田魁新報連載 平田篤胤『勝五郎再生記聞』を読む

第二十回 老人の姿と烏 修験道との関わりも

前世知る少年 勝五郎

簗瀬均氏、秋田魁新報社の許可を得て掲載しています。大きな画像はこちら


勝五郎は、僧が説く極楽の存在を否定した後、生まれ変わりを導いた不思議な老人について語る。

勝五郎を連れてきた老人について、ある人の書いたものによると「爺さまの ような人が来て」云々(うんぬん)とある。

この文政6(1823)年7月9日、源蔵はこの間江戸に来たとき訪問した家々に礼をするため、勝五郎と姉ふさ、兄乙次郎を連れてまたやって来た。あいにく私(平田篤胤)は越谷に出掛けていたが、勝五郎親子は、わが家に三晩ほど泊まったという。

家には太田朝恭、増田成則らがおり、(勝五郎に)その老人の様子を詳しく尋ねると、勝五郎が言うには白髪を長く垂らし、白い髭(ひげ)が長く生えていたという。白絹の衣服の上には、黒い紋印がある袖の大きな羽織のような、後ろに長く垂れる上着を着て、くくり袴(くくりばかま)を履き、足には外側が黒く、内側が赤く丸い形で、足の甲まで覆ったものを履いていたという。

この後の記述は、4月22~25日に篤胤たちが勝五郎と面談したときの模様。

その老人について、とても関心があったので「坊様だったか」と質問すると勝五郎は頭を振った。「では私の頭のようだったか」と信友が問うと、(篤胤の)頭を指して「お前の頭のように髪を長く垂らしていた」と言った。またその時の烏(からす)を、木に留まっている烏を指さして「あれと同じだったか?」と質問すると「あれよりは小さくて目つきが怖かった」と答えた。

死ぬと御崎烏(みさきがらす)または目前烏(めさきがらす)がいるそうだが、昔生まれ変わった者か、蘇生した者が語り伝えたに違いない。烏と鵄(とび)については長年考えたことがあるが、ここでは記さない。

以前、勝五郎の父源蔵は、老人の正体を中野村の産土神である熊野神だろうと推測した。その推測に篤胤も学友の伴信友もうなずいた。

老人が熊野神なら、総本社である和歌山の熊野三山が連想される。ここは古来、修験道の修行の地だ。

また熊野三山において烏はミサキ神(神使)とされ、3本足の八咫烏(やたがらす)は熊野神に仕える存在だ。

熊野神や烏からは、勝五郎の前世藤蔵を誘った老人が、修験道と関わるかに思われよう。修験道は日本古来の山岳信仰と仏教(密教)などが結び付いた宗教だ。

篤胤は外来の宗教である仏教などの影響を受ける前の日本民族固有の精神に立ち返ろうとしながらも、密教やキリスト教、神仙道などを取り入れた独自の平田国学を打ち立てた。篤胤の学問は知識が広範囲なため、こうした多様な融合もみられる。

父源蔵は、勝五郎がひどく仏教、僧などを嫌う理由を語った…。

「去る文政6年4月21日、ある寺(訳あって寺号は記さない)を訪れた際、茶だ菓子だともてはやされたが、勝五郎は『寺のものは汚い』と言って一つも食べなかったので、とても申し訳なく思った」

勝五郎が、僧をこのように嫌うのは、一昨年、私(父源蔵)のもとに源七という少し縁のある病人が身を寄せていたが、彼が亡くなったとき、弔いに来た僧に布施の銭をやると、見ていた勝五郎が『なんでいつも門口に立つ坊さんに物を与え、今度もまた銭をやるの?』と聞いたので、『僧は人から施しを受けて生活するのだから、施すのだよ』と答えた。

すると勝五郎は、『坊さんは人から物を欲しがる悪い奴だ』と言った。それで嫌いになったのかと私(源蔵)が聞くと勝五郎はかぶりを振った。

「違う。嫌いな理由があって元から嫌いなんだ」と言葉に力を入れて否定した。「元から嫌いだ」という理由を尋ねたが、「憎い」とだけ言って、他のことに紛らして答えなかった。

(このことは後に詳しく語ったが、理由があってここに記さない)

こうした場面は『仙境異聞』(文政5年)で、仙人の世界から帰ってきた寅吉が「われはもとより坊主を嫌いなり」と言ったのと共通し、篤胤の宗教観がうかがえる。

 

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