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露姫様の物語

はじめに

勝五郎生まれ変わり物語が現在のように語り継がれるようになったのは、当時の文人大名であった池田冠山(かんざん)、幕府の役人で中野村を治めていた多門(おかど)伝八郎、国学者の平田篤胤(あつたね) 等によって、勝五郎本人や家族から直接話を聞き記録された物語であり、その書物が写本を含め現存しているからです。

最初に書物に著したのが池田冠山です。冠山侯は愛娘(まなむすめ)露姫(つゆひめ)疱瘡(ほうそう)(かか)り6歳で亡くしたばかりの時に、江戸に伝え渡った勝五郎生まれ変わりの話を耳にし、多摩郡中野村(現在の八王子市東中野)の勝五郎の家へ足をのばし直接話を聞き本に書いたのです。隠居していたとはいえ、元大名が直接農民の家を訪れるのは異例の事でした。露姫を亡くし深い悲しみのなかにあった冠山侯にとって、同じように6歳の時に疱瘡で亡くなった藤蔵(とうぞう)の生まれ変わりであると語る勝五郎の存在は、冠山侯にとって露姫の再生を期待させるものであったと思われます。

冠山侯は書いた本を多くの知人に見せたので、勝五郎生まれ変わりの話は更に江戸で広まり、多門伝八郎や平田篤胤が、調書や書物を書くきっかけとなりました。 勝五郎生まれ変わり物語は、露姫の夭折(ようせつ)から始まっているのです。現世では関わりようの無かった村の少年、藤蔵・勝五郎と大名のお姫様である露姫は、池田冠山侯の露姫を思う心情のなかで、深く結び付けられていったのです。露姫の夭折がなければ、勝五郎生まれ変わり物語は現在のように語り継がれることはなかったかもしれません。

露姫様の生涯

「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ」
  「まあ! 何とも可愛らしや。 お姫様ですよ」  このように告げられた、おたへの方は我が子を見てうっすらと笑みを浮かべました。

今から200年ほど前の江戸時代の後期、文化14年(1817)11月2日。江戸の鉄砲洲(てっぽうず)(現在の中央区明石町、聖路加ガーデンの辺り)の鳥取池田家西館の江戸屋敷において、第五代藩主・池田冠山(松平縫殿頭定常(ぬいどののかみさだつね)〕の十六女が誕生しました。冠山侯は、その時51歳。母は冠山侯が最も愛していた側室おたへの方(柿沼氏)です。冠山侯は正室を持たず、側室との間に8男16女という多くの子どもに恵まれました。(このうち18人は、成人前に亡くなっています)

生まれた子は露子(つゆこ)と名付けられました。露姫の侍女(じじょ)として、トキとタツの二人が付くことになりました。翌年の夏頃に乳母(うば)であるタツの乳の出が乏しくなったので、更にひとり乳母が召し出されましたが、露姫はその乳母には寄り添わず、タツから離れようとしませんでした。冠山侯は、露姫が次第にやつれていく様子を見て心配し、雑司ヶ谷の鬼子母神(きしぼじん)に祈らせました。すると、やがてタツの乳房が張ってくるようになり、その後絶えることがなく、露姫も元気を取り戻しました。

露姫は、藩邸への来客者に対しては、みだりに会うことはしませんでしたが、僧侶の来客と知れば、恥じらうことなく好んで面会したのでありました。

文政2年(1819)、3歳になった冬のある日。江戸での池田家菩提寺である、向島の弘福寺(こうふくじ)鶴峯(かくほう)和尚(おしょう)が池田冠山の藩邸を訪れました。すると露姫は、「和尚さまがお出でになられた」と言いながら鶴峯和尚を出迎え、うやうやしく拝礼しました。そして、和尚と親しくなろうと思ったのでしょうか、「一緒に遊びましょう」 と言って、〝きさご〟という貝を取り出しました。和尚は「おのれこの(とし)まで、いまだこのような遊びをしたことがない。願わくば、遊び方を教えておくれ」と言って、暫しの間〝おはじき〟などの遊びの相手をしました。

「あらまあ! 和尚さま、これはこのようになさるのよ」露姫は満面の笑みを浮かべながら和尚との遊びに興じたのでありました。

文政3年、4歳になった卯月(うづき)(4月)の頃、泉岳寺(せんがくじ)貞鈞(ていきん)和尚(おしょう)が冠山侯の招きに応じ藩邸を訪れた際に、露姫も一緒に対面しました。貞鈞和尚は露姫を(いと)しく思い、この先、(かん)の虫の(うれ)いがないようにと、(ねんご)ろに 加持(かじ)(神仏の守りを受けて、災いをはらう祈り)をしてあげました。露姫はそれを、うやうやしく受け、それが終わると自分の部屋に戻り、やがて手遊びの品を持って再び和尚の前に現れました。「ありがとうございました」 露姫は加持の御礼として、その品を貞鈞和尚に差し上げたのでした。貞鈞和尚が法話をした時も、露姫は姉君たちの後ろに座り聞いていましたが、法話が終わるまで()きることはありませんでした。

露姫は常に書画を好み、自ら手習いして他人(ひと)にも書かせて楽しんでいました。絵本を見る時は、仏・菩薩の像があるものを好んでいたそうです。

「おとうさま。この仏さまは誰ですか」 名前のわからない仏画があると、冠山侯に訊ねることは度々のことでありました。また近侍の子供たちと一緒に、折々の遊びにカルタやおはじきなどをする時は、人に勝つことを好まず、その遊びをよく知らない者がいれば助けてやって仲間に入れる心遣(こころづ)いをしました。

ある日、部屋に(あり)()い上がっていたので家来が殺そうとしていた時、露姫はこれを見て「何をしておる、(ほうき)でそっと()いて外へ放ちやれ」と命じられました。小さな生物(いきもの)の命にも心を配っていたのでした。

露姫は幼女でありながら聡明であると評判が高く、思いやりのあるお姫様でした。冠山侯の影響もあってか信仰心が篤く、淺草寺や雑司ヶ谷の鬼子母神などへは、自分から好んでお参りをしていました。社寺に(ぬか)づいて小さな手を合わせ、まめやかに(おが)む姿はとても幼女とは思えぬものでした。冠山侯にとって露姫は、孫のように可愛かったことでしょう。露姫をいつも(かたわ)らに置いて(こと)(ほか)可愛がっていたのでありました。


このような話を、薩摩国(さつまのくに)島津斉興(しまづなりおき)夫人・賢章院(けんしょういん)(鳥取池田家第六代藩主池田治道(はるみち)の娘・弥姫(いよひめ)で、島津斉彬(しまづなりあきら)の実母)が耳にし、幼い身ではあるが、三宝(さんぽう)帰依(きえ)(すえ)頼もしく如何(いか)なる菩薩の応化であろうかと、冠山侯に手紙を添えて秘め置いた唐磁の観音像を露姫に贈りました。

賢章院から贈られて来た箱を開けた露姫の侍女達は、 「あらまあ! 可愛らしいですね」 「これは、お人形さまでございますね」 こう言いながら露姫に手渡しました。

これを手にした露姫は、「これは観音様だ」と言って、咄嗟(とっさ)に小さな手を合せ礼拝しました。侍女たちは単なる人形だと思っていたのでしたが、露姫はすぐに観音様だと悟ったのであります。そして、自ら庭に出て花を()み、茶菓も添えて観音像の前に供えたのでありました。

5歳になった文政4年4月、おたへの方が、藩主 定保(さだやす)侯に随従して鳥取へお国入りすることになりました。定保侯の生母はおたへの方で、露姫にとって定保侯は兄にあたる方です。 露姫は悲しさのあまり、一行が出立した夕べ、馬場に出て大声で「たへ、たへ」と母を呼ぶのでありました。(そば)(つか)えていた侍女のタツが(たわむ)れて露姫に話しかけました。

(いと)しい姫様を置いたままで、どうしておたへ様は鳥取へ行ってしまわれたのでしょうね。薄情なことですね」 すると、露姫は 「お兄様からお供を(おお)せつかったから、おたへはつうさまを置いて行ったのに、そのようなことは言うでない」とたしなめました。すると、今度は侍女のトキが(たず)ねました 「ではどうして姫様もご一緒においでにならないのですか」と申し上げると、露姫は 「お父様がおいでになられたら、つうさまもお供をして行きましょう。でもお父様がおいでにならなければ、つうさまはお(そば)に居てお(とぎ)をせねばならないのです」と答えました。

それから1年後、露姫6歳になった文政5年3月、定保侯が鳥取から帰ったので、露姫は大層喜んで母に甘え、朝夕には御休息の間(藩主定保侯の私的の部屋)へ足を運び、定保侯にまつわり付きました。定保侯も格別に露姫を可愛がっていました。


露姫は定保侯をはじめ、姉君たちに対して礼儀正しく、一緒に膳を並べて食事をしている時に、姉君たちが露姫の好物を分かち与えると、露姫はそれを召し上がった後、下座に下がってお礼のお辞儀をするのでした。また、冠山侯の部屋へ行き、ふたりだけの時に、冠山侯から「これは珍しいものだから、そこでお上がり」とお菓子を頂戴した時も、露姫は「皆さんと一緒に頂きます」と言って奥に姉君たちを呼びに行き、姉君たちが揃ってから召し上がるのでした。

そして月日が経ち、文政5年(1822)。露姫6歳の年の11月8日のことです。 実母・おたへの方から贈られ、以前から露姫が愛用していた鏡を、姉君である春姫(春子、実母は露姫と同じおたへの方)に譲ろうとして言いました。
「この鏡はもういらないから、お春さまにあげます」 「それは、母上様が差し上げたお鏡でしょうに、ずっと持っていなさい」と、姉君の春姫は答えました。すると露姫は「それなら、お預けしておきます」と言って、春姫に鏡を手渡しました。

そして、手遊びの品々を全て自分の部屋に並べて、遊び相手の子ども達に分かち与え、(やぶ)(そこ)ねた手遊びの品は、「川へ流せ」と侍女たちに(おお)せられたのでありました。

これらの露姫の行為は、露姫が自身の御命期(ごめいご)(寿命)を知っていて、早々に人々に知らせようとしたのではないかと思われてきます。


露姫は幸せな人生を歩み始めたように思われましたが、その翌日から露姫は熱を出し床に就いてしまいました。その頃世間では疱瘡(ほうそう)天然痘(てんねんとう))が流行していました。そのきざしではないかと冠山侯をあわてさせ、宿直の医師に診察させましたが、医師は「(いま)だそのおきざしとも定めがたき」と申し上げました。露姫は父・冠山侯の心配を()(はか)り、安らかを(よそお)い起き上がり、たとえかるた・竹がえし・きさごはじき・縁むすびなどの遊びをして、夜中を過ぎる頃まで眠らずに冠山侯を慰めました。

翌日10日に2人の医師が診察したところ、思っていた通り露姫は流行していた疱瘡に(かか)ってしまっていたのです。当時、疱瘡という病気は不治の病でした。このために、多くの子どもたちが命を失っていました。露姫は名だたる医師たちから治療を受けていましたが、当時の医術では施しようがありませんでした。病床に就いてから20日足らずの、11月27日の(たつ)(こく)(午前8時頃)を過ぎるほどに、6歳という(はかな)い生涯を閉じられました。


11月30日の(とり)(こく)(午後6時頃)、露姫の葬列は鉄砲洲の藩邸を出立しました。途中、父・冠山侯の計らいで、露姫が(かね)て深く信仰していた淺草寺の前へ葬列を通しました。雷門に向い(ひつぎ)を止めさせ、露姫の身代わりとして家臣・高橋栄助が御本尊を拝みました。その後、葬列は菩提寺である弘福寺に到着し、鶴峯和尚を御導師として葬儀は滞りなく終わりました。

冠山侯は、帰途に淺草寺を詣でました。手を合わせる冠山侯の顔色を(うかが)い、家臣の服部脩蔵は「露姫を(はちす)(うてな)(極楽浄土に往生(おうじょう)した者が座るという蓮の花の台座)に早う迎え取りたまえ」と、拝んでいるように思えました。冠山侯の悲しみは幾ばくか、露姫の追善供養を怠りませんでした。

露姫の法名は、「浄観院殿玉露如泡大童女(じょうかんいんでんぎょくろにょほうだいどうじょ)」です。

露姫様の遺筆

露姫が亡くなった後、露姫の遺書とも思える何通かの書き付けが見つかりました。何れも、6歳の子供が書いたとは思えないような心のこもった手紙や和歌でした。

先ずは、文政5年12月28日のこと。露姫の実母である、おたへの方と侍女のトキ・タツ2人が、露姫の遺品を整理していた折に、机の引き出しの箱の中から一通の和歌が見つかりました。

「ゑんありて たつときわれに つかわれし いくとしへても わすれたもふな

   とき たつ さま   六つ  つゆ」
露姫の侍女であった、トキ と タツ に宛てた和歌で、二人の名前を歌に()んでいるのです。

年が明けて文政6年正月8日。この日は、露姫の四十二日の忌日になるので、姉君達は露姫の在りし日のことなどを思い出したりしながら、露姫愛用の箪笥(たんす)の中にあるものを見たところ、一通の書き物が出てきました。懐紙(かいし)に書かれた3首の句でした。

「十いちかつ御きうそくてかく

(蝶の絵が描かれ、その下に) おのかみの すへおしら(ず)に もふこてう

(桜の絵が描かれ、その下に) つゆほとの はなのさかりや ちこさくら

(雨の絵が描かれ、その下に) あめつちの おんはわすれし ちちとはは

六つつゆ」

この3首の句の頭に『御きうそくてかく(御休息で書く)』と記されているので、七代藩主・定保(さだやす)私室である御休息の間で書かれたものです。定保侯は常日頃から露姫をたいそう可愛がっており、露姫も慕っていましたので、この部屋に露姫は度々足を運んでいたのでしょう。藩主であり兄君でもある定保侯に、後世を知り給えとの(いさ)めとも思えるものです。桜の絵の句は、露姫自身の名を歌に詠み入れたと思われます。

3日後の、正月11日。侍女のトキが冠山侯の言い付けで探し物をしている時に、露姫の手遊びの箱の中から一通の手紙を見つけました。 その内容は冠山侯への遺書とも思えるもので、次のように記されていました。

「おいとたから ごしゅあ(が)るな つゆがおねかい申ます めてたくかしく
おとうさま

まつだいら つゆ

あける つゆ
上」

冠山侯へ「お酒が父上様の過ちにならんことを思うゆえ、お酒は()めて下さい」 との諌めと思えるものでした。冠山侯は愛酒家であり酒豪でもありましたが、その後、他人には酒を勧めることはあっても、自分は一切口にしなかったということです。( 冠山侯が露姫の、遺墨を見てから禁酒したことが、自身や知人の著書に記されています ) 冠山侯の深酒に対する露姫生前の気遣いについてこんな逸話があります。冠山侯は常に家来達に対して「酒の量を過ごしそうな時は(かたわ)らより注意してくれ」と、言っていましたが、いざその時になると家来たちは冠山侯のご機嫌を気がねして、誰ひとりとして進言する者がおりませんでした。これを見ていた露姫は大いに気遣い、宴たけなわの時であっても(まか)()で「おとうさま。お酒あがるのはこの辺で」と申し上げ、何くれと冠山侯の深酒を止めようとしたのです。

さらに3日後の、正月14日。四十九日のお逮夜(たいや)なので、生前の露姫の思い出話に花が咲きました。露姫の実母である おたへの方が、かつて露姫様から受け取っていた「おたへさま つゆ」と記された書簡を取り出されました。何のことが書いてあるのか訳のわからない長文で書かれた一通の手紙で、露姫の(たわむ)(ごと)と放っておいたものを姉君たちと解読に努めるうちに、再上段と再下段の文字を1字ずつ拾って読むと、次のような和歌になることが分かりました。

「まてしはし なきよのなかの いとまこい むとせのゆめの なこりおしさに

おたへさま

つゆ」

これは即ち、幼い露姫が、既に辞世(じせい)の決意を詠んだ歌なのです。皆は改めて驚嘆(きょうたん)し袖を濡らしたのでありました。

次いで、2月7日のこと。翌日の8日は鬼子母神の縁日で、(かね)て露姫がしばしば参詣の意思があったことなので、侍女のトキ・タツの2人が露姫の代わりに詣でようと思い、生前に色々の絹で縫っておいた「(くく)(ざる)」を、鬼子母神に奉納しようとして紙袋に貯えておいたのを取り出したところ、袋の裏に

「ゑにしふかきかゆへにちちとなし こころミちあるゆへにははとなし
  おんをうけおんをゑんとしてミちひく」
と記して、
「むまれてて おやよりおもし ミつのおん  つゆ 」という発句(ほっく)が記されていました。

又、2月28日のこと。 露姫の所持していた紙入れを、おたえの方が預かっていたのを、開けてみると、小さく綴じた冊子が二冊入っていました。最初に冠山侯、定保侯、姉君たちの名を記し、次に江戸詰の国許(くにもと)の家老を始め、家臣たちの名前を百人ぐらい書き、さらに長屋の者や出入の子供たちの名を列挙した後に、
「うたかいの ふかきしゆしようをしめさんと つたなきふてに かきのこしけり
かミほとけ へたてぬようにこゝろもて このよハさかへ こせハあんらく
こしようをハ ねかわすとても たいいちハ じひとなさけと ほとこしとミち
しうとなり けらいとなした そのほかも きせん上下の へたてなく
たすけてやろう こころひとつて
これハミんなほんのこと うたかいふかいと しやとうという  つゆ」

目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた、露姫のこうした数々の遺筆を目にした冠山侯の思いは、(はか)り知れないものがありました。

冠山侯の中野村訪問、『勝五郎再生前生話』を執筆

このように、露姫の遺墨が発見されている折に、江戸にまで広まった勝五郎生まれ変わりの噂が冠山侯の耳に入って来たのでした。「我娘(わがこ)露姫も、勝五郎のように生まれ変わって欲しい」そうした思いが、冠山侯の心の奥から噴き出してきたのです。

2月になり冠山侯は勝五郎の家を訪れることを決意し、江戸から中野村まではるばる足を運びました。隠居の身であったとはいえ元大名が片田舎の農家の家を訪れることは(まれ)な事でした。 "我が子を思う親心" が強く感じられる出来事です。勝五郎の生家である小谷田源蔵家ではどんなに驚いたことでしょうか。気おくれした勝五郎は、生まれ変わりの話をすることが出来なかったので、冠山侯はしかたなく、主に祖母からの話を聞き書きし、江戸に戻り『勝五郎再生前生話(ぜんしょうばなし)』という一冊の本にまとめました。勝五郎生まれ変わりの話として、最初の書物です。冠山侯はこの本を、親交のあった松浦(まつら)静山(せいざん)や泉岳寺の貞鈞(ていきん)和尚(おしょう)などの友人・知人たちに見せたので、勝五郎生まれ変わりの噂はさらに江戸中に広まって行くことになったのです。

冠山侯のこうした行動が、中野村を治めていた旗本多門(おかど)伝八郎の重い腰を動かし、勝五郎父子を江戸の多門宅へ呼び出し、調書を(したた)めて上司へ提出しました。又、勝五郎父子が多門伝八郎に呼ばれて江戸に来ていることを知った国学者の平田篤胤が、自分の学問所・気吹舎(いぶきのや)へ呼んで話を聞き、『勝五郎再生記聞(さいせいきぶん)』を執筆するという事へと繋がっていくことになりました。

玉露童女追悼集

露姫は、多くの人たちに追悼を寄せられたお姫様としても知られています。露姫の死後、先述したように露姫が愛用していた箪笥(たんす)や小箱などから遺書とも思える6通の書き付けが見つかったのですが、これを目にした冠山侯は感激の余り、露姫の菩提を弔う為に、これ等の内4点の遺筆を露姫の筆跡に模して板木に彫らせ、多くの知人や寺院に配り、露姫を追悼する詩歌を広く募りました。

鳥取市鹿野(しかの)にある雲龍寺(うんりゅうじ)には、その時受け取ったこれ等遺筆の木版刷り4点の外に、「覚書」・「露姫の法名が書かれた紙片」・「補足の説明書」などが今も保存されています。雲龍寺にある「覚書」によると、露姫遺筆の木版刷りなどが配られたのは、江戸だけではなく全国各地のゆかりの寺院や知人などにも配られていたことがわかります。

冠山侯が配られた露姫遺筆の木版摺りを見て、感動した多く人達による露姫に対する追悼の和歌や句・詩文・絵画などが冠山侯のもとに寄せられました。老中だった松平定信(さだのぶ)から市井(しせい)の人たちまで老若男女、貴賎上下を問わず、その数1,600点にもおよびました。

露姫に観音像を贈られた賢章院も長文で追悼の書を寄せています。(玉露童女追悼集・第五巻)

冠山侯は、贈られて来たこれらの追悼の書などを、『玉露童女追悼集』として、30巻の巻物に仕立てて、冠山侯と露姫に縁のあった淺草寺に奉納しました。残念ながら1巻が紛失してしまいましたが、残りの29巻は淺草寺に現存しています。露姫様の木彫像も淺草寺に保存されています。

『玉露童女追悼集』は、永い間淺草寺伝法院の宝蔵に秘せられてきましたが、淺草寺では昭和63年 (1988) に観音堂落慶30周年を記念して、『玉露童女追悼集』の公刊に着手、昭和63年12月から平成8年3月を経て、全五冊が刊行されました。現在ではたやすくその全容を知ることが出来ます。


※ 参考文献
服部脩蔵『玉露童女行状(六とせの夢)』
小谷惠造『池田冠山傳』
日野市郷土資料館『ほどくぼ小僧 勝五郎生まれ変わり物語 調査報告書』
 

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