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勝五郎と学者・文人たち

平田篤胤と勝五郎

平田篤胤と幽冥界研究

平田篤胤(1776~1843)は、出羽国秋田郡久保田(秋田市)の出身です。20歳の頃江戸へ出て、苦労して独学で国学を学びました。

文化元年(1804)に独立して学舎を開設、「真菅之屋(ますげのや)」と号しました。同13年、常陸・下総旅行の途中、小浜村(千葉県銚子市)の八幡宮で、「天磐笛(あめのいわふえ)」という自然石の笛を入手したことに因んで、学舎の名前を「気吹乃屋(いぶきのや)(気吹舎)」と改めました。

勝五郎の生まれ変わりが評判になった頃には、篤胤は幽冥界の研究に興味を持ち研究に励んでいました。文化9年に最初の妻織瀬(おりせ)、13年にはニ男又五郎が相次いで亡くなり、人の死後、魂はどこへ行くのか、あの世はどこにあるのかということを、一所懸命に考えていました。文化10年には、代表作『霊能真柱(たまのみはしら)』を刊行しました。

「勝五郎の生まれ変わり」「天狗小僧寅吉」「稲生物怪録」の研究は、篤胤の幽冥界研究の3つの柱だといわれています。

文化3年には、備後国三次(みよし)(広島県三次市)の住人稲生(いのう)平太郎が、三十日間妖怪と格闘した記録。『稲生(いのう)物怪録(もののけろく)』を弟子に校訂させました。

文政3年(1820)11月、天狗に伴われて8年間異界を旅したという天狗小僧(てんぐこぞう)寅吉(とらきち)(15歳)に出会い、彼の話を詳細に聞き取って『仙境異聞(せんきょういぶん)』をまとめました。篤胤は、寅吉を自らの学舎に招き、門人としました。勝五郎が気吹舎に来た時には寅吉(嘉津間)がいて、勝五郎から直接生まれ変わりの話を聞きました。また、勝五郎も門人となって1年ほど気吹舎にいたので、寅吉と共に生活していたことになります。勝五郎は、寅吉からどのような話を聞いたのでしょうか。

平田篤胤『勝五郎再生記聞』を著す

異界と交渉を持った人物に興味を持っていた篤胤にとって、あの世から戻ってきた(生まれ変わった)と語る勝五郎の話はどうしても聞いておきたいものでした。文政6年(1823)4月、勝五郎が江戸に来ていることを友人の屋代弘賢(やしろひろかた)から聞いた篤胤は、中野村領主である旗本多門傳八郎(おかどでんはちろう)宅を訪ね、勝五郎を湯島男坂下(文京区)にあった気吹舎によこしてくれるように頼みました。

多門の用人谷孫兵衛の計らいで23日にやってきた勝五郎は、はじめは話をすることを嫌がりましたが、妻や娘が菓子を与えたり、気ままに遊ばせたりとなだめすかして、23日と少しずつ話を聞きました。特に、もう多摩へ戻るからと暇乞いに来た25日は、誰も聞いていない所でなら話すといったので庭の片隅で話を聞きました。篤胤は物陰からそっと話を聞き、その場には門人となっていた天狗小僧寅吉(嘉津間)や、友人の国学者伴信友などがいました。

たどたどしく幼児の言葉で語る勝五郎の話を、伴信友は苦労してまとめ、6月、篤胤はそれをもとに『勝五郎再生記聞』を著しました。

七月九日には、父源蔵が勝五郎と兄・姉も伴って気吹舎を訪れ3日間滞在しましたが、篤胤は留守だったので門人達が話を聞きました。

篤胤が、勝五郎の生まれ変わりの話の中で特に注目したのは、彼をあの世へ誘った黒衣の老人、すなわち産土神(うぶすながみ)の存在でした。

勝五郎気吹舎の門人となる

文政8年(1825)8月26日、勝五郎は平田篤胤が経営していた国学を学ぶ塾、気吹舎の門人となりました。気吹舎は、当時、湯島天神(文京区湯島)の男坂下にありました。入門者の名前が記された『誓詞帳(せいしちょう)』には「文政八年乙酉八月廿六日 武州多摩郡中野村源蔵倅 小谷田勝五郎 十一才」と記されています。『気吹舎日記』の同日の項にも「源蔵、勝五郎を連れて来る」とあり、この日に入門したようです。勝五郎は、一年ほど気吹舎にいたといわれています。気吹舎で何を学んだのか、記録は残されていませんが、学舎に出入りした当時の一流の学者たちに出会って、多くのことを学んだことでしょう。

生まれ変わりがきっかけとなり、勝五郎は平田篤胤と出会い、思いがけず学ぶ機会に恵まれ、一般の農民の子どもには経験できないことを体験することとなったのです。

※『気吹舎日記(いぶきのやにっき)』に見える勝五郎

平田篤胤上洛する

文政6年(1823)7月、篤胤は多くの著作を携え念願の上洛(都へ上ること)を果たしました。この時のことは『上京日記』に詳しく記されています。

国学の正統であった本居宣長(もとおりのりなが)派からは冷遇されましたが、詩歌を司る公家、富小路治部卿貞直(とみのこうじじぶきょうさだなお)の尽力で、仁孝天皇・光格上皇に著書を献上することが出来ました。

このとき篤胤は上皇に『勝五郎再生記聞』をお見せし、上皇をはじめ皇太后や大宮御所の女房たちがたいへんな興味を示したということです。上覧に供した再生記聞は、10月になってようやく戻ってきましたが(当初の予定になかったものなので、献上はしなかった)、篤胤はこれを名誉とし、上皇が読んで折り曲げた箇所には、わざわざ朱で線を引いて記録に残しているほどです。

こうして勝五郎の生まれ変わりは、都の人々にも知られることとなりました。「再生記聞」は、篤胤の没後清書本が平田門人たちに頒布されたので、多くの写本が存在し、たくさんの人に興味を持って読み継がれたことがわかります。

生まれ変わり騒動が収まってからの勝五郎の消息については、ほとんど伝えられる資料が残っていませんが、農業の傍ら父源蔵の稼業であった目籠の仲買いを引き継ぎ、普通の人として生涯を終えたと伝えられています。明治2年(1869)12月4日、55歳で亡くなりました。一方、平田篤胤は、天保12年(1841)幕府により著述を差し止められ、国許秋田への帰還を命じられ、同14年9月11日、失意のまま68歳の生涯を終えました。

 

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